ブダペストの南西約120㎞、磁器を産出する美しい町「ヘレンド(Herend)」があると聞いて、足を伸ばしてみることに。
朝5時に支度を整えて玄関のドアを開く。
あたりはまだ闇の中だ。
ロの字型に建てられたアパートメントは、各部屋の扉が中庭に向かって開く造りになっており、ロの字の一箇所に、中庭から外の通りに抜ける通路が設けられている。
右手で壁を手探りで伝いながら、反時計回りに進むと、通りに抜ける通路があったはずの場所には木の扉がぴったりと閉じられており、先に進むことができない。
こんな所に扉など無かったはずだが…。用心のため夜間だけ閉めるのか?
力任せにドンドン叩いたり、私たちの部屋のキーを鍵穴に差し込んでガチャガチャやってみるが、扉はびくともしない。
押しボタンがあったので押してみると、扉の向こうでピーピー音はするが、ブザー音は空しく闇に吸い込まれていくだけだ。
榎本さんに電話するしかないと、踵を返したまさにその時、ガチャリと鍵を開ける音がして、開いた扉の向こうから一人の男が顔をのぞかせた。
我々の祈りが流れ星に通じたに違いない。
朝帰りの遊び人がタイミング良く帰ってきたものと信じ込んだ私たちは、歓声をあげて神に感謝した。
上さんか゛「サンキュー、サンキュー」とか言いながら、扉を押し開けて進もうとすると、男が仰天しながら私たちを制止した。
その時、私たちは悟った。通路を封鎖しているとばかり思っていた扉は、実はアパートの一室の玄関であり、私たちは見ず知らずの住人の家に押し入ろうとしていたことを。
暗がりに目を凝らすと、驚愕と恐怖に顔を引きつらせて男が立ち尽くす扉の左隣に、表通りに向かう通路が闇の中に、ぽっかり口を開けていた。
私たちはびっくりしながら「ソーリー」と謝りつつ、逃げるように通りに向かったのだが、私たち以上にびっくりしたのは、部屋の住人だったろう。
南(テーリ)駅に到着すると、朝6時前だというのに大勢の人々が行き交っている。しかも年配の女性が目立つ。
「露天商も女性が多いし、きっと仕事に向かうんだろうな。ハンガリーの女性は働き者だな」と、感心することしきりの篠さん。
「日本に帰ったら、女房に言ってやらにゃいかんな」と鼻息が荒い。
「『じゃあ、一人でハンガリーに永住すれば』と言い返されるのがオチですよ」と、口を開きかけた私だったが、余計なお世話なので言うのはやめた。
売店で朝食のパンを買い込み、列車に乗る。
ヴェスプレームで下車、駅構内にインフォメーションがあったので、「ヘレンドに行きたい」「両替所はどこ?」と尋ねるが、英語は通じず、返答の意味が分からない。メモ用紙を渡すと窓口の女性は、鉄道駅を◎で示すと矢印を描き、バス停と両替所らしきものを書いた。
「ヘレンドまでバスで行きなさい。バスを降りた場所には両替所もあります」と解釈して、バスチケットを購入。
チケット代80Ft(約40円)は安いなあ、と思いつつ駅舎を出ると、バラック小屋が数軒、散らばっているだけの空間が広がっていた。
人っ子一人見当たらない。
せんだって他界したポール・ニューマンの代表作「明日に向って撃て」の中盤、主人公二人が新天地を夢見て降りたったボリビアの駅で、あまりの荒涼さに呆然と立ち尽くすシーンがあったが、まさにそんな感じだ。
「地方都市はこんなものさ」と、務めて明るく振る舞いながら右手に進むと、バスが二台ポツンと停まっていた。
しかし、ヘレンド行きのバスは見当たらない。
数人の運転手らしき男たちがタバコを吸っていたので、身振り手振りに筆談も加えて確認すると、ヘレンド行きの直行便はなく、いったんバスターミナルに行ってから乗り換えねばならないと判明した。
窓口の女性が教えてくれた両替所もヘレンドではなく、ヴェスプレームのバスターミナル付近を指しているようで、さきほど80Ftで購入した切符はこのバスターミナルまでのもののようだ。
バスに乗り込んでしばらく走ると、車窓に遠く、次第に街並みが開けてくる。
15分ほどで到着したバスターミナルは、とっても近代的な建物で、駅前は人で賑わっている。
「ヨーロッパの街は鉄道駅を中心に栄えているので、駅を目ざせば宿や食事にありつける」と思い込んでいたが、例外もあるようだ。
ヘレンド行きのバスは9時発車。30分ほど余裕がある。
両替所を求め、道行く人に声を掛けるうち、「両替所」よりは「銀行」と言う方が通じることに気が付き、以降、「バンク」と訊きながら、ビルの一角に銀行を発見。
しかし日本円は扱っておらず、別の銀行を教えてもらう。
教えられた銀行に入ると、ロビーに番号札の発券機があるが、ボタンが六つもあってどれを押していいのかわからない。
発券機の横には銀行員が一人立っていて、迷っている私たちを横目で見ながら「うわー、タイミング悪い時に居合わせちゃったなあ」というような困った顔をしながら、自信なさげに一番のボタンを押して、番号札を私たちに手渡してくれた。
時間を節約するため、私が代表して三人分を両替することにした。
パスポートの準備も万端だ。
電光掲示板に番号が表示されると同時に、私たちは競走馬のように飛び出し、次の瞬間にはカウンターの上にズラリと、一万円札を三枚並べていた。
ところがカウンターの行員は「ノー」と言う。
両替は発券機の四番を押して待て、ということらしい。
仕方ないので再び番号札を発券して順番を待つ。
カウンターに呼ばれた時は既に8時50分近かった。
ハンガリー人は几帳面なのか、それとも私たちの人相が悪かったのか、カウンターの女性行員は一万円札を裏返したり逆さにしたり、ためつすがめつ眺めていた。
ようやく机の引き出しを開けてフォリント札を取り出そうとしたが、紙幣が足りなかったのか、ゆっくりと立ち上がると隣のカウンターに行き、他の行員と何やら話し出した。
「次のバスだな」上さんがつぶやいた。
両替を終えた時は9時5分前だった。
しかし、わずかでも可能性があれば勝負をかけてしまうのが上さんの習性だ。
バスターミナルを目ざして走り出した。
横断地下道の階段を駆け下り、上り、駐車場を突っ切って走る、走る。
私の頭の中では「太陽にほえろ」のイントロが、大音響で流れていた。
プラットホームに滑り込むと、バスはまだ停留所にいた。
間に合った。
しかし振り返ると、篠さんの姿がどこにも見えない。
上さんが捜索に向かい、私はバスの中で切符を買う。一人300Ft(約150円)。
バスの前で待つことしばし。上さんが篠さんを従えて走って来た。
「次のバスにすると言ったじゃないか」と、篠さんは口をパクパクさせて憤然と抗議しているらしいのだが、いかんせん、息が切れて何を言っているのかよくわからないので、「まあまあ」などと適当にあしらいながら、無事バスに乗車。
ヴェスプレームから西へ13Km。小さな村の一画に世界的な磁器ブランド「ヘレンド」の本社がある。
1851年のロンドン万博の際、エリザベス女王の目にとまったことで、ヘレンドの名は一気に広まった。
ヘレンドが称賛されるゆえんは、大量生産が始まった時代にあっても、一貫して職人技を守り抜いてきた点にある。
工場ではそうした、実際に陶器が作られる過程を見学することが出来る。
我々も、見学ツアー・博物館入場券・カフェのドリンク券がセットになったコンバインドチケットを買って、まずは博物館に入館した。
しかし博物館とは名ばかりの小規模なもので、あっという間に見終えてしまい、見学工場に移動してツアー開始時刻を待っていると、他に観光客がいなかったためか、時刻を早めてツアーをスタートしてくれた。
緻密な手作業で薔薇の花びらなどが作られていく様は見事で、「イギリスで見学したウェッジウッドより、製作過程がよくわかる」と上さんは絶賛していた。
見学を終えると「ビクトリアショップ」というお土産コーナーが待ち構えており、どこの国でもお決まりの光景だ。
オリエンタルデザインを取り入れた陶器も多く、柿右衛門の影響を受けたといわれる「インドの華シリーズ」は、細密な草花のうねりと、くすんだ緑色の微妙な濃淡が特徴的。
食器には不向きとされるグリーンの単色だが、気品に満ちたこの磁器は「ヘレンドグリーン」として人気が高い。
それぞれがお土産を購入して出口に向かうが、後ろ髪を引かれる思いの篠さんと上さんは、魅惑的な陶器の誘いに負けて追加購入。
すると今度は会計時にパスポートの提示を求められ、何やら記入された書類を渡される。
ハンガリーでは商品にVATと呼ばれる付加価値税が20%(2017年現在27%)かけられており、外国人観光客が一日一店舗で44,001Ft(約22,000円・2017年現在54,001Ft)以上の買い物をすると、10-15%の払い戻しを受け取ることが出来る。
その手続きに必要な書類らしいということが、ヴェスプレームに戻るバスの中でガイドブックを読んで判明した。
「それなら大久保君の買い物も一緒に会計すれば良かったね」と篠さんが言ってくれた。
ヴェスプレームのバスターミナルから、今度はタクシーで旧市街に移動。
オーヴァーロシュ広場でタクシーを降り、一時間半後に迎えに来てくれるようドライバーに頼んで昼食に向かう。
オーヴァーロシュ広場に面したレストラン「エレファント」の店内は、床に段差がつけられたスタイリッシュな内装で、パスタがメインということもあってか、一人でカウンターに席を取る若い女性たちも目についた。
昼食後、「英雄の門」をくぐり「城通り」を散策する。
季節外れの昼下がり、中世の面影をとどめる通りに人影はまばらで、すり減った石畳を踏む我々の靴音だけが、風に乗って流れていく。
こじんまりした広場に出ると、小さな教会が慎み深く佇んでいた。
イシュトバーン1世の妃ギゼラが、この地で即位したという伝えに因み、ヴェスプレームは「妃の町」との異名を持つ。
城通りの突き当りには王と妃の像が建てられ、町を見守っている。像の背後は断崖となっており、見下ろすと、赤いレンガ屋根の古い家並が連なっていた。
世界中に点在する多くの遺跡は、滅び去った遠い過去を偲ばせてくれる。が、ヴェスプレームでは過去が今でも息づいている。
大地に寄り添い、そこに身を置く人々の暮らし。脈々と繰り返されてきた生活の息吹きが、何ともいえない懐かしさを駆り立てながら観る者の胸に迫ってくる。もし、一日間スケッチをする機会を与えられたなら、世界の中から私はこの地を選びたい。
遠くに望む高速道路らしき高架と、無機質な集合住宅のコンクリートがなければいいのに、と思うのは、もちろん気楽な旅行者のわがままだ。
渡る風が心地よく頬を撫でていく。
オーヴァーロシュ広場に戻り、約束時刻の五分前にやってきたタクシーに乗り込む。
鉄道駅に向かう車内で私は激しい尿意に襲われた。昼食のビールが効いてきたようだ。
駅に着き、転がるようにタクシーを降り、たぶん公衆トイレはないだろうと見渡すと、なんとトイレの方向を示す看板があるではないか。
絶望の中に一筋の光を見い出して駆けつけたトイレはしかし、扉に釘が打ち付けられ、閉鎖されていた。
結局、青空トイレのお世話になる。
こんな経験をするたび、日本の公衆トイレは世界に誇れる一大文化だと痛感する。
ブダペスト南駅に帰着。昨日、キセル乗車で罰金を食らうという痛い目に遭っているので、夕方近くにはなっているが、夕食に出掛けることなどを考慮して、一日乗車券を1,550Ft(約750円)で購入。
やにわに篠さんがツカツカと駅員に近づくと、右手に持った一日券をヒラヒラさせながら腕時計を見せて「何時まで使えるの?この券は」と力強く言い放った。
語順とイントネーションこそ何となく外国語っぽさを装ってはいるが、生粋の日本語だ。
駅員も頭を抱えると思いきや、驚くべきことにチケットの裏を見せ、「24」という数字を指さしながら「オンリー、トゥディ」とか言ってるではないか。
言葉の壁をいとも簡単に越えてしまう篠さんを見ていると、世界は一つと実感できる。
ポーランドではトラムの一日券は使用開始から24時間有効だったが、ハンガリーでは当日24時で失効するようだ。篠さんの確認がなかったら、明日の朝、胸を張って改札を通過したにもかかわらず、不正乗車でまた捕まるところだった。
今回の旅の楽しみの一つは、ハンガリー伝統ダンスショーの鑑賞だ。
「ドゥナ・パロタ」というホールが有名で、榎本さんにチケットを手配してもらおうと思ったのだか、あいにく本日は休演日ということだった。
「ルーム・オペラの隣にインフォメーションセンターがあるので、公演がある劇場を訊いてみたら」との榎本さんの言葉に従いセンターへ。
「ダンス、ダンス」と呪文のように繰り返す私たちに、センターの受付嬢は町はずれの劇場を紹介して、地元の人たちで賑わうリーズナブルな店ですよ、と太鼓判を押してくれた。
バスとトラムを乗り継いで到着した劇場は公民館のような建物であるが、掲示板には大勢の人々が踊るポスターが貼ってあり、いやが応にも気分は昂ってくる。
こういう場所でこそ、観光客向けのタラタラしたショーではなく、地元民をも唸らせる、気合い十分な真剣ダンスを見せるに違いない。
私たちの胸は踊った。
ウキウキと階段を上り建物に入ると、ガランとしたロビーの一隅にカウンターがあり、中では三人の女性たちが暇そうに雑談をしていた。
夕食の都合もあるので、まずは終演時刻を尋ねると「イレブン・サーティ」との返事。
「 じゅ、十一時半?」思わず私たちは絶叫した。
しかも「ダンス・トゥゲザー」とか言ってる。
はるばる会場まで来た末に発覚した、恐るべき事実に我々は愕然とした。
どうやらここは、ショーを見せる劇場ではなく、入場者みんなで輪になつて踊るダンスホールみたいなものらしい。
このとき私の脳裏には、昨年のクロアチア・ドブロブニクでの出来事が甦った。
レストランで夕食を終えた上さんが「いやー、おいしかった。お礼に日本の伝統芸能を披露しよう」と言い出して、ウェイターと差し向かいになると朗々たる声で、謡曲をたっぷりと謳いあげたのだ。
「日本には盆踊りにドジョウすくい、びんずる囃子という伝統舞踏があるじゃないか。今夜はハンガリアンと朝までダンスバトルだ」とばかり、勇躍ホールに乗り込む上さんをちょっぴり期待したのだが、さすがにそういう展開はなく、我々はすごすごと、今来た道を引き返すことになった。
途中、ドナウ川を渡るバスの中で上さんが、「この夜景を見ることが出来ただけでも、来た甲斐があったな」と、取りなすように呟いた。
たしかに異国の地で、トラムやバスを乗り継いで目的地まで辿り着いたことを考えれば、私たちの行動は全く意味のない彷徨ではなかったのかもしれない。
ドナウの夜景が、パチバチと拍手を贈ってくれているようだった。