• Home
  • /
  • /
  • フランスで最も美しい村「ブブロン」を経て、幻想的な小島モンサンミッシェルへ。

フランスで最も美しい村「ブブロン」を経て、幻想的な小島モンサンミッシェルへ。

今日はモンサンミッシェルへ日帰りツアーです。昨日、ルーブル美術館の見学合間に、ガイドブックに掲載されていた゜”Emi Travel Tour” という旅行会社に電話で申し込みました。一人135€ 約14,500円。

06:40、パレロワイヤル広場に集合して、ツアーバスに乗り込みます。

バスガイドの話によると、パリではストライキが多く、ベルサイユに向かう地下鉄C線は本日、運休中とのこと。通常でも地下鉄1号線は日曜日、10時にならないと動き出さないらしく、フランスでは労働者の権利が手厚く保障されているようです。

分刻みで電車が発着する日本のスケールで旅行計画を立てると、無惨な結果になりそうです。

モンサンミッシェルへ向かうバスは途中、“フランスで最も美しい村”に認定されている「ブブロン アン ノージュ(Beuvron en Auge / ブブロン村」に立ち寄ります。゜

人口わずか200人、端から端まで10分もあれば歩けてしまうような小さな村に、世界中から観光客が訪れています。その理由を紐解いてみましょう。

かつて畜産で潤っていた村は鉄道の廃線とともに過疎化し、一時衰退していました。しかし、1970年代半ばに当時の村長が村おこしのため観光客の誘致を図り、木骨造りの館を別の村から移築したことがきっかけで、現在の絵本のような村へと変わっていきました。

歴史建造物に認定されている「17世紀の屋敷(Manoir du 17 siecle)」
村の家の多くが「コロンバージュ(colombages)」と呼ばれるノルマンディー地方特有の木骨造りとなっている。

ブブロン村が属するノルマンディ地方はリンゴの栽培が盛んで、そのリンゴから作られる酒が名産品になっています。

リンゴから作られる酒は、アルコールのパーセンテージ別に呼び名が変わります。アルコール度数3パーセントのリンゴ酒は「シードル(Cidre)」、6パーセントは「ビール(Biere a la pomme)」、13パーセントは「ワイン(Vin)」、40~45パーセントは「カルバドス(Calvados)」という具合に。

カルバドスは、この村の名産品になっています。

リンゴは酒だけではなく、お菓子にも加工されます。この地方で作られるクレープ生地に包まれたリンゴケーキは、「ブブロン(Beuvron)」と、地名が商品名になっているほど、有名なお菓子です。

ブブロン村。林檎とライラックの並木道に彩られた、小さな村。観光地ではあるけれど、酒屋やパン屋が立ち並ぶ、生活感にあふれた村。

この素敵な村へ車でアクセスする場合は、「シードル街道D49」を利用します。パリから212km、2時間30分の道のりです。


木の枝が、丸いボンボリのような緑の塊を付けています。宿木(やどりぎ)と呼ばれる寄生木で、他の木の枝に根を下ろし、樹液を吸い取って生きる、まことにけしからん存在。なのにフランスでは、この木がクリスマスからお正月にかけて縁起を呼ぶ「めでたい」木として扱われています。
もともと、ケルト神話でヤドリギは『聖なる木』と呼ばれるほどで、ヤドリギの下にいる女性にはキスをしてもいい、そしてヤドリギの下でキスをすると永遠に結ばれる、という逸話がヨーロッパでは伝わっています。
モンサンミッシェルに到着。映画「シェルブールの雨傘」のイメージどおり、曇りがちなノルマンディーの空、それを突き破るかのように、修道院の大尖塔がそびえ立っています。

伝説によると8世紀初頭、ノルマンディー大司教オベールの夢に、大天使ミカエルが現れます。夢のお告げどおり、森の中のトンプ山中に礼拝堂を建てたところ、周囲はたちまち津波に覆われ、現在のようなモンサンミッシェル湾になったといわれます。

かつては潮の満ち引きで孤島になった小島ですが、島と陸をつなぐ道路が1870年に建設されました。

道路を歩いて島に向かう途中、たくさんの重機が目につきます。陸と島を結ぶ道路の改修工事が行われているようです。

何だか、スターウォーズに登場する「全地形用装甲歩行兵器」(通称AT-AT) が島を攻撃しているようにも見えて、これはこれで、二度とお目にかかれない貴重な現場に巡りあったと解釈いたしましょう。

実際、100年戦争のとき修道院は、要塞として使用されていたそうです。

島内はちょっとした町になっており、修道院に向かうグランド通り (Grande Rue) 沿いにはホテルや土産物店が並び、賑わいを見せています。

島内に入場してすぐ左手に見えてくる「メール・プラル・ホテル」は、オムレツの老舗です。モンサンミッシェルのイメージの一つにオムレツがありますが、そもそもどうしてモンサンミッシェルとオムレツが結びついたのでしょうか。

モンサンミッシェルはフランス有数の巡礼地の一つで、多くの信者が巡礼に訪れていました。前述のとおり、昔モンサンミッシェルは完全な離島で、干潮時を見計らって素早く島に渡るのですが、タイミングを逃して満潮に飲まれ、溺れて命を落とした巡礼者が多くいたそうです。

また、モンサンミッシェルにたどり着くまでの道のりも容易なものではなく、巡礼者は過酷な暑さや凍えるような寒さをしのぎ、食事にありつけるかわからない状況を、ひたすら歩み続けます。巡礼とは本当に命がけだったのです。

そんなモンサンミッシェルにたどり着くことが本当に難しかった時代、ここで宿を営んでいたメール・プラール(La Mère Poulard / プラールおばさん)という人が、苦難を乗り越えモンサンミッシェルにたどり着いた巡礼者に食事を用意しようとしました。

しかし、海に囲まれたモンサンミッシェルですが、潮の満ち引きが激しい地形のため漁業は難しく、食料が豊富にあるわけではありません。そこでプラールおばさんは、簡単に手に入る卵をメレンゲ状に膨らませ、大きなオムレツを作ったのです。モンサンミッシェルのオムレツは、プラールおばさんの、巡礼者への敬意と優しさによって生まれた一品だったのですね。

ところが、トリップアドバイザー2012年8月~9月のレビューを見ると、「高価悪質ぼったくりの店・・・絶対に入らないで!」「詐欺まがい」との酷評が、メール・プラル・ホテルに対して並んでいるではないですか。

どうやらプラールおばさんの意志は、次代に受け継がれなかったようです。そこへいくと、かつての貧乏食だった「そば」を、芸術ともいえる域まで高めた信州人の熱意には、頭が下がる思いです。

「本家のオムレツより美味しいですよ」とガイドの案内で入った「レ・テラス・プラール」で、「ふわふわオムレツとムール貝の昼食」を頂きましたが、味がまったくしない素朴な風味でした。

結論。モンサンミッシェルのオムレツは不味い。おいしいオムレツ・オムライスの作り方>>>

通りの店の軒先には、店舗の種類を著すサインが掲げられています。白馬に乗った人のレリーフは、郵便局のマーク。ここで係員に直接、郵便を手渡すと、モンサンミッシェルの消印が押されたエアメールが届くとのこと。

さらに通りを進みます。海洋博物館の向かい、動物達のレリーフがかかった店の手前に、人が一人やっと通ることの出来る細い階段があります。ここが、修道院に向かう階段。

しばらく登って右に折れた地点から見上げると、尖塔にミカエルを頂く教会が見事に見えます。上方には、プラールおばさんが眠る墓があります。

ときおり勾配の急な細い階段を進むと、やがて歴史博物館の脇に出ます。ここが修道院の入り口になっています。

教会内部は、ロマネスク様式の低い天井と、高い天井を支えることが可能になったゴシック様式が融合し、見事なコントラストを見せています。
修道院の最上階には、中庭を取り囲む大回廊があります。修道僧たちの瞑想の場でもあった回廊で注目したいのは、二重に立つ円柱です。円柱がわずかにズレて立ってます。このズレが距離以上の奥域を感じさせ、柱が延々と続いていくような錯覚を生み出しています。

「ヤシの木」と呼ばれる巨柱に刻まれた、ゴシック様式のレリーフ技術。

修道院の西側テラスに出て最初に目に入るのは、一望できる湾の様子。それだけで満足してはもったいない。ここでは床に注目!石材に番号が彫られています。これは給料計算のためのもの。

修道院を建てるにあたって、当時の作業員は石を何個運んだかで給料が決まったため、自分のものと分かるように目印として彫ったという数字です。


大車輪は、人が入り回転させる仕組みの貨物昇降機

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サン・テティエンヌ礼拝堂には、牢獄時代にほとんどが消失してしまった壁画が一部残っています。

モンサンミッシェルを後に駐車場へと戻る道すがら、左手にあるスーパー2階のトイレに立ち寄ります。

目に留まった「メール・プラール」のクッキー。島内で買ったのと同じ物が、こちらの方が安く売っていました。

パリ市内に戻り、今夜も「リバテルガール ヂュノールスエード」に宿泊。

b4連泊の3日目、本日、木曜のお値段は17,700円

この記事をSNSでシェア!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

Back to Top