事務所で「僕」は、共同経営者の相棒から奇妙な報告を受けます。
事務所の前に黒塗りの高級車が止まり、非の打ち所がない身なりをした無表情な「黒服の男」が現れたというのです。
男は、事務所が発行したPR誌の製作担当者――つまり「僕」に会いたいと要求していました。
原因は、その誌面に掲載した「羊の群れの風景写真」でした。ほどなく現れたその男によって「僕」は高級車へと促され、連行されたのは、世田谷にある巨大で不気味な屋敷でした。
そこで男は自分が、「先生」と呼ばれる右翼の黒幕の、第一秘書であることを明かします。男は、現在「先生」が脳腫瘍で死の床にあるという衝撃的な事実を告げ、「先生」が日本の政財界を影で操るまでにのしあがった、異常な過去について冷ややかに語り始めるのでした。
「1936年の春を境にして、先生はいわば別の人間に生まれ変わったんだ。それまでの先生は、ひとことで言ってしまえば凡庸な行動右翼だった。
北海道の貧農の三男坊に生まれて、十二の歳に家を出て朝鮮に渡り、それもうまくいかずに内地に戻って右翼団体に入った。
血の気だけは多くていつも日本刀をふりまわして、といったタイプさ。たぶん字だってロクに読めなかったはずだ。
1932年の冬に先生は、要人暗殺計画に連座されて刑務所に入れられたんだ。刑務所に入れられてほどなく、先生は強度の不眠症にかかられた。
同時に奇妙な幻覚に悩まされるようになった。
それがどんなものであるかは本人にしかわからないが、あまり気持ちの良いものではなかったことは確かなようだな。不眠症が完全に回復したのは、1936年の春だった。
そして夏に刑務所を出ると同時に、先生はあらゆる面で右翼のトップにおどり出たんだ。
人心を掌握するカリスマ性、綿密な論理性、熱狂的な反応を呼びおこす演説能力、政治的な予知能力、決断力、そして何よりも大衆の持つ弱点をてこにして社会を動かしていける能力だ」
男は一息ついて軽い咳払いをした。
「もちろん右翼思想家としての彼の理論と世界認識は他愛のないものだった。しかしそんなのはたいしたことじゃない。問題はそれをどこまで組織化できるかだ。
ちょうどヒトラーが生活圏と優性民族という他愛のない思想を国家レベルで組織化したようにね。
しかし先生はそういった道を歩まれなかった。彼が歩んだのは裏の道、影の道だ。表面には出ずに、裏から社会を動かす存在だ」
男はシガレットケースから二本目の煙草を取り、爪の先で先端を整えてから唇にはさんだ。火はつけなかった。
「我々は王国を築いた」と男は言った。「強大な地下の王国だ。我々はあらゆるものをとりこんでいる。
政界、財界、マスコミュニケーション、官僚組織、文化、その他君には想像もつかないようなものまでとりこんでいる。
我々に敵対するものまでとりこんでいる。権力から反権力に至る全てだ。
それらの殆んどは自分がとりこまれていることにさえ気づいていない。要するにおそろしくソフィスティケートされた組織だ。
そしてこの組織を先生は戦後一人で築きあげたんだ。つまり先生は国家という巨大な船の船底を一人で支配しているわけさ。
彼が栓を抜けば、船は沈む。乗客はきっと何が起こったかわからないうちに海に放り出されるだろうね」
そして彼は煙草に火を点けた。
「しかしこの組織には限界がある。つまり王様の死だ。王が死ねば、王国は崩壊する。
何故なら、その王国は一人の天才の資質によって築きあげられ、維持されてきたものだからだ。私の仮説によるなら、ある謎のファクターによって築きあげられ、維持されてきた、ということだ。
先生が死ねば、全ては終る。なぜなら我々の組織は官僚組織ではなく、一個の頭脳を頂点とした完全機械だからだ。
そこに我々の組織の意味があり、弱点がある。あるいは、あった。
先生の死によって組織は遅かれ早かれ分裂し、火に包まれたヴァルハラ宮殿のように凡庸の海の中に没し去っていくだろう。
誰にも先生のあとを継ぐことはできないんだ。組織は分割される。ちょうど広大な宮殿がとり壊されて、そのあとに公団住宅が建ち並ぶようにね。
均質と確率の世界だ。そこには意志というものがない。あるいは君はそれが正しいことだと考えるかもしれない。分割がね。
しかし考えてみてくれ。日本中がまったいらになって山も海岸も湖もなく、そこに均質な公団住宅をずらりと並べることが正しいことなのかな?」
「わかりませんね」と僕は言った。「そういった設問自体が適当なのかどうかがわからない」
「君は頭がいい」と男は言って膝の上で指を組んだ。そして指先でゆっくりとしたリズムを刻んだ。「公団住宅の話はもちろんたとえだ。
もう少し正確に言えば、組織はふたつの部分にわかれている。前に進むための部分と、前に進ませるための部分だ。
ほかにもいろんな機能を果す部分はあるが、大きく分ければこのふたつの部分によって我々の組織は成立している。
その他の部分には殆んど何の意味もない。前に進む部分が『意志部分』で、前に進ませる部分が『収益部分』だ。
人々が先生を問題にする時に取り上げるのはこの『収益部分』だけだ。
そしてまた、先生の死後に人々が分割を求めて群がるのもこの『収益部分』だけだ。
『意志部分』は誰も欲しがらない。誰にも理解できないからだ。これが私の言っている分割の意味だ。意志は分割され得ない。百パーセント引き継がれるか、百パーセント消滅するかだ」
男の指はあいかわらず膝の上でゆっくりとしたリズムを刻みつづけていた。それ以外は何もかもが最初と同じだった。
捉えどころのない視線と冷やかな瞳、表情のない端整な顔。その顔は終始同じ角度で僕の方に向けられていた。
「私は君の経歴をかなり細かく調べてみたんだが、それなりになかなか面白かった。人間をおおまかに二つに分けると現実的に凡庸なグループと非現実的に凡庸なグループにわかれるが、君は明らかに後者に属する。
これは覚えておくといいよ。君の辿る運命は非現実的な凡庸さが辿る運命でもある」
「覚えておきます」と僕は言った。
男は肯いた。
「それでは具体的な話をしよう」と男は言った。「羊の話だ」
男は体を動かして封筒から大判のモノクローム写真を取り出し、テーブルの上に僕の方に向けて置いた。部屋の中にほんの少しだけ現実の空気が入り込んできたような気がした。
「これは君の雑誌に載った羊の写真だ」
ネガを使わずに雑誌のグラビアをそのまま引きのばしたにしては驚くほど鮮明な写真だった。おそらく特殊な技術を使っているのだろう。
「そのとおりです」
「我々の調査によれば、それはこの六ヵ月以内に、完全なアマチュアによって、北海道で撮られた写真だ。
カメラは安物のポケットサイズだ。撮ったのは君じゃない。君はニコンの一眼レフを持ってるし、もっとうまく撮る。この五年間は北海道に行ってない。そうだね?」
「どうでしょう?」と僕は言った。
「ふうん」と言って男はしばらく黙った。沈黙の質を見定めるような黙り方だった。「まあいい、我々が欲しいのは三つの情報なんだ。君がどこで、誰からこの写真を受け取ったか、そしていったいなんのつもりでこんな下手な写真を雑誌に使ったか、だ」
「言えません」と僕は自分でも驚くくらいあっさりと言った。「ジャーナリストにはニュース・ソースを守秘する権利があります」
男はじっと僕に目をやったまま、右手の中指の先で唇をなぞった。そして何度かそれを繰り返してから、手を膝の上に戻した。沈黙はそのあともしばらく続いた。
どこかで郭公 (かっこう) でも鳴き始めてくれるといいのに、と僕は思った。しかしもちろん郭公は鳴き始めなかった。郭公は夕方には鳴かない。
「君はどうも奇妙な男だな」と男は言った。「私にはやろうと思えば、君たちの仕事を全部シャット・アウトすることもできるんだよ。そうすれば君はもうジャーナリストとも言えなくなる。もっとも今君がやっている下らないパンフレットやちらしやらの仕事がジャーナリズムであると仮定すればの話だけれどね」
僕はもう一度郭公のことを考えてみた。どうして郭公は夕方に鳴かないのだろう?
「それに、君のような人間をしゃべらせる方法は幾つかある」
「たぶんそうでしょう」と僕は言った。「しかしそれには時間がかかるし、それまでは僕はしゃべったとしても全部はしゃべらない。あなたにはどれだけが全部なのかはわからない。違いますか?」
全てははったりだったが、コースは合っていた。それにつづく沈黙の不確かさは、僕がポイントを稼いだことを示していた。
「君と話すのは面白いよ」と男は言った。「君の非現実性はどことなくパセティックな趣きがある。まあ、いい。 べつの話をしよう」
男はポケットから拡大鏡を出して、テーブルの上に載せた。
「それで写真を心ゆくまで調べてくれ」
僕は左手に写真を持ち、右手に拡大鏡を持ってゆっくりと写真を眺めた。何頭かはこちらを向き、何頭かはどこかべつの方角を向き、何頭かは無心に草を食べていた。
雰囲気がもりあがらない同窓会のスナップ写真みたいな感じだった。
僕は一頭ずつ羊を点検し、草の繁り具合を眺め、背後の白樺林を眺め、その後の山なみを眺め、ぽっかりと空に浮かんだ雲を眺めた。
「一頭だけ種類が違いますね」と僕は言った。
「そのとおりだ。その右から三頭めの羊をのぞけば、あとはみんな普通のサフォーク種だ。その一頭だけが違う。サフォークよりはずっとずんぐりしているし、毛の色も違う。顔も黒くない。なんというか、ずっと力強い感じがする。
私はこの写真を何人かの緬羊の専門家に見せてみた。彼らの出した結論は、こんな羊は日本には存在しないということだった。そしておそらく世界にもな。だから、今君は存在しないはずの羊を見ているということになる」
僕は拡大鏡を持って、もう一度右から三頭めの羊を観察してみた。よく見ると背中のまんなかあたりに、コーヒーをこぼしたような淡い色あいのしみがあった。
それはひどくぼんやりとしていて不鮮明で、フィルムの傷のようにも見えたし、目のちょっとした錯覚であるようにも思えた。あるいは実際に誰かがその羊の背中にコーヒーをこぼしたのかもしれなかった。
「背中に淡いしみが見えますね」
「しみじゃない」と男は言った。「星形の斑紋だよ。これと比べてみてくれ」
男は封筒から一枚のコピー・ペーパーを出して僕に直接手渡した。
それは羊の絵のコピーだった。濃い鉛筆で描かれたらしく、余分の部分には黒い指のあとがついていた。全体としては稚拙だが、何かしら訴えかけるところのある絵だった。
細かい部分が異常なほどの丁寧さで描かれていた。僕は写真の羊とその絵の羊を交互に見比べてみた。
明らかに同じ羊だった。絵の羊の背中には星形の斑紋があり、それは写真の羊のしみと呼応していた。
「それからこれだ」と男は言って、ズボンのポケットからライターを出して僕に手渡した。ずっしりと重い銀製の特別誂えのデュポンで、そこには羊の紋が刻まれていた。羊の背中にはくっきりと星形の斑紋が入っていた。
僕の頭が少し痛みはじめた。
「さっき君に渡した絵の説明をすると」と男は言った。「その絵はアメリカ陸軍病院の医務記録のコピーだ。日付は1936年となっている。
その絵は医師の求めに応じて、先生が自らお描きになったものだ。幻覚を記述する作業の一環としてね。
事実、この医務記録によれば、この羊は実に高い頻度で先生の幻覚の中に現われる。数字で言えば、約80パーセント、つまり五回の幻覚のうち四回までに羊が登場していることになる。
それも普通の羊ではなく、この背中に星を背負った栗色の羊だ。
それから、そのライターに刻まれた羊の紋章は先生が御自分の印として1936年以来一貫して使用されているものだ。君も気づいたと思うが、その紋章の羊は医務記録に残された羊の絵とまったく同じものだ。
そしてそれはまた、君の今持っている写真の羊と同じでもある。なかなか興味深い事実だと思わないか?」
「単なる偶然でしょう」と僕は言った。なるべくあっさりと聞えるように言ったつもりだが、あまりうまくはいかなかった。
「まだある」と男は続けた。「先生は羊に関する内外のあらゆる資料と情報を、熱心に集めておられた。まるで何かを捜しているようにね。
先生が病の床に就かれてからは、私がごく個人的にその作業を引き継いだ。とても興味があったんだよ。いったい何が出てくるものかね。
そこに君が出てきた。君と君の羊だ。これは、どう考えても、偶然じゃない」
僕は手の中でライターの重みをたしかめた。実に気持の良い重さだった。重すぎもしないし、軽すぎもしない。 世の中にはこういう種類の重さがあるのだ。
「何故先生はそれほどまでに熱心に羊を探しておられたのかな? 君にはわかるか?」
「わかりませんね」と僕は言った。「先生に訊いてみた方が早いでしょう」
「訊ければ訊いてるよ。先生はこの二週間ばかり意識がないんだ。おそらく意識は二度と戻らないだろう。そして先生が亡くなれば、その背中に星の印がついた羊の秘密も永遠に闇の中に葬られてしまうんだ。
それだけは、私にはどうしても我慢ができない。個人的な得失のためにではなく、もっと大きな大義のためにね」
僕はライターのふたをあけてやすりを擦って火を点け、それからふたを閉めた。
「先生が死ぬ。ひとつの意志が死ぬ。そしてその意志の周辺にあるものも全て死に絶える。あとに残るのは数字で数えられるものだけだ。それ以外には何も残らない。だから私はその羊をみつけたいと思う」
彼ははじめて何秒か目を閉じ、そのあいだ沈黙した。
「私の仮説を言おう。あくまで仮説だ。気に入らなければ忘れてくれればいい。私はその羊こそが先生の意志の原型を成していると思うんだ」
「動物クッキーみたいな話ですね」と僕は言った。男はそれを無視した。
「おそらく羊が先生の中に入り込んだんだ。それはたぶん1936年のことだろう。それ以来40年以上、羊は先生の中に住みついて、そして出ていったんだ。私はそれを探し出したいし、それには君の協力がいる」
そして彼は黙った。僕も黙っていた。蟬だけがまだ鳴いていた。庭の樹木が夕暮近くの風に葉をさらさらとすりあわせていた。
家の中はあいかわらずしんとしていた。まるで防ぎようのない伝染病のように死の粒子が家じゅうに漂っていた。
「もう一度言うが、君が写真を手に入れたルートを教えてほしい」と男は言った。
「言えません」と僕は言った。
男はため息をついた。「私は君に正直に話したつもりだ。だから君も正直に話してほしい」
「僕は話せる立場にないんです。僕が話すと、僕に写真をくれた人物に迷惑が及ぶかもしれない」
「とすると」と男は言った。「羊に関連してその人物に何らかの迷惑が及ぶかもしれないと考えるだけの根拠が君にはあるわけだね」
「根拠なんてありませんよ。ただそんな気がするというだけのことです。何かがひっかかるんです。ずっとあなたの話を聞いてそう思ったんだ。何かがひっかかるってね。勘のようなものです」
「だから言えないんだな」
「そうですね」と僕は言ってから少し考えた。「僕は迷惑に関してはちょっとした権威なんです。他人に迷惑をかける方法なら誰にも負けないくらい知っている。
だからなるべくそういったものを避けて暮してるんです。でも結局はそうすることで他人にもっと迷惑をかけてしまうことになる。どう転んでも同じなんですよ。
しかし同じだとわかっていても、最初からそんな風にはできない。これはたてまえの問題です」
「私にはよくわからないな」
「凡庸さというのはいろんな形をとって現われる、ということです」
僕は煙草をくわえて、手に持ったライターで火をつけ、煙を吸いこんだ。気分がほんの少しだけすっきりとした。
「言いたくないんなら、言わなくてもいい」と男は言った。「そのかわり君が羊を探し出すんだ。これが我々の最後の条件だ。
今日から一ヵ月以内に君が羊を探し出せれば、我々は君が欲しいだけの報酬を出す。もし探し出せなければ、君の会社も君もおしまいだ」
「仕方ないでしょう」と僕は言った。「しかしもし、全てが何かの間違いで背中に星の印のついた羊なんて、そもそもいなかったとしたら?」
「結果は同じだよ。君にとっても私にとっても、羊をみつけるか、みつけないかのどちらかしかないんだ。まんなかはない。
君が賭け金をつりあげたんだ。ボールを持ったからにはゴールまで走るしかないさ。たとえゴールがな かったとしてもね」
「黒服の男」から理不尽な要求を突きつけられ、一夜の猶予を与えられた「僕」は深い思索に沈みます。
問題の写真は、行方知れずの親友「鼠」から届いた手紙に同封されていたものでした。男に写真の入手先を明かさなかったのは、所在の知れない親友に危害が及ぶことを本能的に恐れたからです。
しかし最終的に「僕」は、「なぜ鼠はこの写真を自分に託したのか」という問いの答えを求め、親友と羊の行方を追うべく、この不条理な冒険へと足を踏み入れる決意を固めます。
羊を探しに行く決心をしてしまったせいで、気分はすっかり良くなっていた。指の先にまで生気がいきわたっているように感じられた。
二十歳という分水嶺を越えてこのかた、そんな気分になれたのは初めてのことだった。僕は食器を流しに放り込み、猫に朝食を与えてから黒服の男の電話番号をまわした。6回ベルが鳴ってから男が出た。
「今朝の新聞の、馬の写真は見ました?」
「馬の写真は見たよ」と男は言った。
「馬と騎手がまったく別のことを考えてるみたいに見えませんか?」受話器をとおして沈黙が新月のように部屋にしのびこんできた。息づかいひとつ聞こえなかった。耳が痛くなりそうな完全な沈黙だった。
「それが用件なのか?」と男が言った。
「いや、ただの世間話ですよ。共通の話題があってもいいでしょう」
「我々の共通の話題なら他にあるよ。たとえば羊の問題とかね」咳払い。「悪いけれど、私は君ほど暇なわけじゃないんだ、用件だけを手短かに話してもらえないかな?」
「問題はそこにあるんですよ」と僕は言った。「簡単に言ってしまえば、僕は明日羊を探しに行こうと思う。ずいぶん迷ったけれど、結局はそうすることにしたんです。
しかしやるからには僕のペースでやりたい。しゃべる時だって好きなようにしゃべりたい。僕にも世間話をするくらいの権利はある。
いちいち行動を見張られたくもないし、名前も知らない人間に小突きまわされたくはない。そういうことです」
「君は自分の置かれた立場を誤解している」
「あなたも僕の置かれた立場を誤解している。いいですか、僕は一晩よく考えてみたんですよ。それで気がついたんです。僕には失なって困るものが殆んどないことにね。
女房とは別れたし、仕事も今日で辞めるつもりです。部屋は借りものだし、家財道具もロクなものはない。財産といえば貯金が二百万ばかりと中古車が一台、それに年取った雄猫が一匹いるだけです。
洋服は全部流行遅れだし、持ってるレコードだってだいたいが骨董品みたいなもんです。名声もないし、社会的信用もないし、セックスアピールもない。
才能もないし、たいして若くもない。いつも何か下らないことを言って、あとで後悔してる。
つまり、あなたの表現を借りれば凡庸な人間です。これ以上失うべき何があるんですか? あったら教えてほしいですね」
しばらく沈黙がつづいた。そのあいだに僕はシャツのボタンにからまった糸屑を取り、ボールペンでメモ用紙に星の絵を十三個描いた。
「誰にでも失いたくないもののひとつやふたつはあるんだ。君にもね」と男は言った。「我々はそういったものを探し出すことにかけてはプロなんだ。
人間には欲望とプライドの中間点のようなものが必ずある。全ての物体に重心があるようにね。我々はそれを探し出すことができる。今に君にもわかるよ。
そしてそれを失ってから、はじめてそんなものが存在していたことに気づくのさ」
短かい沈黙。
「しかしまあ、それはもっとあとの段階に至って登場してくる問題だ。今の時点では君の演説の主旨はわからないでもない。君の要求は呑むことにするよ。余計な手だしはしない。君の好きなようにやればいい。一ヶ月間はね、それでいいかな?」
「いいです」と僕は言った。
「それでは」と男が言った。
そして電話が切れた。あと味の悪い電話の切れ方だった。僕はあと味の悪さを消すために腕立て伏せを30回と腹筋を20回やってから食器を洗い、三日分の洗濯をした。