鼠の手紙は五月に、僕のアパートの郵便受けにくしゃくしゃになってつっこまれていた。回送の貼り紙がふたつも付いていた。あて先が昔の住所になっていたためだ。なんにしても、こちらんら知らせようがないのだから仕方ない。
もうずいぶん長く君に会ってないような気がするな。いったい何年になるかな? 何年だろう?
年月の感覚がだんだん鈍くなってきている。なんだか平べったい黒い鳥が頭の上でばたばたやってるみたいで、三つ以上ものが数えられないんだ。悪いけど君の方で数えてみてほしい。
みんなに黙って街を出ちゃったことで、君も少なからず迷惑を受けたかもしれない。あるいは君にも黙って出ていっちゃったことで、不快に思ったかもしれない。僕は何度か君に弁明しようと考えたのだけれど、どうしてもできなかった。ずいぶん多くの手紙を書いては破った。でもこれは当然と言えば当然の話で、自分にもうまく説明できないことを、他人に向って説明することなんてできるわけはないんだ。
僕は元気に暮している。君の方はどうだろう? 僕の住所は教えないけれど、気にしないでほしい。君に何かを隠したがっているというわけじゃないんだ。
君に住所を教えたら、そのとたんに僕の中で、何かが変ってしまいそうな気がするんだ。うまく言えないけどね。
君は僕がうまく言えないことをいつもうまくわかってくれるような気がする。わかってくれればくれるほど、僕はどんどんうまくものが言えないようになっていくみたいだ。きっとうまれつきどこかに欠陥があるんだろう。
もちろん誰にだって欠陥はある。
しかし僕の最大の欠陥は僕の欠陥が年を追うごとにどんどん大きくなっていくことにある。つまり体の中でにわとりを飼っているようなもんだ。にわとりが卵を産み、その卵がまたにわとりになり、そのにわとりがまた卵を産むんだ。
そんな風にして、そんな欠陥を抱えこんだまま、人間は生きていけるんだろうか? もちろん生きていける。結局のところ、それが問題なんだね。とにかく僕はやはり僕の住所を書かない。きっとその方が良いんだ。僕にとっても、君にとってもね。
おそらく我々は十九世紀のロシアにでも生まれるべきだったのかもしれない。僕がなんとか公爵で、君がなんとか伯爵で、二人で狩をしたり、決闘をしたり、恋のさやあてをしたり、形而上的な悩みを持ったり、黒海のほとりで夕焼けを見ながらビールを飲んだりするんだ。
そして晩年には「なんとかの乱」に連座して二人でシベリアに流され、そこで死ぬんだ。こういうのって素敵だと思わないか? 僕だって十九世紀に生まれていたら、もっと立派な小説が書けたと思うんだ。ドストエフスキーとまではいかなくても、きっとそこそこの二流にはなれたよ。
君はどうし ていただろうね。君はずっとただのなんとか伯爵だったかもしれない。ただのなんとか伯爵というみたいのも悪くないな。なんとなく十九世紀的だものな。
でもまあ、もう止そう。 二十世紀に戻ろう。
街について話そう。
我々の生まれた街ではなく、べつのいろんな街だ。
世界には実に様々な街がある。それぞれの街にはそれぞれのわけのわからないものがあって、それが僕をひきつけるんだ。そんな風にして、僕はこの何年ものあいだにずいぶん多くの街を通り抜けてきた。
いきあたりばったりに駅を下りると小さなロータリーがあって、街の案内図があり、商店街がある。どこだってこれは同じだ。犬の顔つきまで同じだ。
だけど今度の場所はこれまでの場所とはまったく違う。今度のはとても静かな場所だ。僕には少し静かすぎるかもしれない。
しかしここはある意味では僕にとってのひとつの終結点だ。僕は来るべくしてここに来たような気もするし、またあらゆる流れに逆ってここまで来たという気もする。僕にはそれについて判断を下すことができない。
ここからいちばん近い町まで車で一時間半もかかる。いや、町というほどのものじゃないな。おそろしく小さな町の、そのまた残骸だ。君にはきっと想像もつかないだろう。
しかしまあ、とにかく町だ。衣類や食料品やガソリンが買える。もし見たければ、人の顔も見ることができる。
冬のあいだは道が凍りついて、車は殆んど走れなくなる。道のまわりは湿地帯だから、地表そのものがシャーベットみたいに凍りついてしまうんだ。そしてその上に雪が降って、どこが道かさえわからなくなってしまう。この世の終りみたいな景色だよ。
ここからは本当に君にあてた手紙になる。
君に対する頼みがふたつある。どちらも急ぐという種類のものではないから、君の気が向い時に片づけてくれればいい。君がそうしてくれると僕はとても助かる。
僕は五年前に街を出る時、とても混乱して急いでいたので、何人かの人間にさよならを言い忘れた。具体的に言うと、君とジェイと、君の知らない一人の女の子だ。
君にはもう一度会ってきちんとさよならを言えそうな気がするんだが、あとの二人に関してはもうその機会はないかもしれない。だからもし君が街に帰ることがあったら、僕からのさよならを伝えてほしいんだ。
もちろんこれがとても虫の良い頼みであることはよくわかっている。本当は僕が自分で手紙を書くべきなんだと思う。でも正直に言うと、僕は君に街に帰って、その二人に実際に会ってほしいんだ。その方が僕の気持は手紙を書くよりうまく伝わりそうな気がする。
彼女の住所と電話番号はべつに書いておく。もし引越すなり結婚するなりしていたら、それはそれでいい。会わずに帰ってきてほしい。しかし今でも同じ住所に住んでいたら、彼女にあって僕からよろしくと伝えてほしい。
それからジェイにもよろしく。僕のぶんのビールを飲んでおいてくれ。
それがまずひとつ。
もうひとつはちょっと変った頼みだ。
一枚の写真を同封する。羊の写真だ。これをどこでもいいから人目につくところにもちだしてほしい。これもずいぶん勝手な頼みだとは思うけれど、君以外に頼む相手がいないんだ。
僕のありつたけのセックス・アピールを君に譲ってもいいから、僕のこの頼みだけは叶えてほしい。理由は言えないけれど。この写真は僕にとっては重要なものなんだ。いつか、もっと先に、説明できると思う。
小切手を同封しておく。いろんな費用に使ってくれ。金のことは何も心配しなくていい。ここにいると使いみちに困るくらいだし、それに今のところ僕にできることはそれくらいしかなさそうだからね。
くれぐれも僕のぶんのビールを飲むことを忘れないように。
回送の付箋ののりを取ると、消印は読みとれなくなってしまった。封筒の中には小切手と、女の名前と住所を書いた紙と、モノクロームの羊の写真が入っていた。
小切手の振り出しは札幌の銀行だった。とすれば鼠は北海道に渡ったのだろう。
鼠からの依頼の真意を突き止めるため、「僕」は数年ぶりにかつて暮らした街へと降り立ちます。足が向いたのは、かつて鼠と二人で数え切れないほどのグラスを重ねた「ジェイズ・バー」でした。
店主のジェイは、妻を亡くした、中国系二世の寡黙な男です。彼は多くを語らず、ただ静かに客の孤独を受け入れるような、深い海を思わせる包容力を持っていました。
変わり果てた街の中で店の扉を開け、ジェイの前に座ること。それが「僕」にとって、失われた親友の影を追うための最初の儀式でした。
1963年、ベトナムでの戦争が激しくなってきたころ頃、ジェイは遠く離れた僕の「街」にやってきた。そして二代めのジェイズ・バーを開いた。
僕は鼠と知りあうまで、いつも一人でジェイズ・バーに通いつづけた。僕はちびちびとビールを飲み、煙草を吸い、ジュークボックスに小銭を入れてレコードを聴いた。
その頃のジェイズ・バーは大抵すいていて、僕とジェイはカウンターごしにいろんな話をした。どんな話をしたのかはまるで思い出せない。
17歳の無口な高校生と男やもめの中国人のあいだにいったいどんな話題があったのだろう?
僕が18の歳に街を離れると鼠がそのあとを継いでビールを飲みつづけた。1973年に鼠が街を出てしまうと、そのあとを継ぐものは誰もいなかった。そしてその半年後には道路拡張のために店も移転することになった。
そのようにして二代めのジェイズ・バーをめぐる我々の伝説は終った。
三代めの店は昔のビルから500メートルほど離れた川のほとりにあった。さして大きくはないがエレベーターまでついた新しい四階建てのビルの三階である。エレベーターに乗ってジェイズバーに行くというのもどうも妙なものだ。カウンターの椅子から街の夜景が見渡せるというのも妙だった。
新しいジェイズ・バーの西側と南側には大きな窓があって、そこから山なみと、かつて海であった場所が見渡せた。
海は何年か前にすっかり埋めたてられ、そのあとには墓石のような高層ビルがぎっしりと建ち並んでいた。
「昔なら海が見えたね」と僕は言った。
「そうだね」とジェイは言った。
「よくあそこで泳いだよ」
「うん」と言ってジェイは煙草をくわえ、重そうなライターで火をつけた。「気持はよくわかるよ。山を崩して家を建て、その土を海まで運んで埋めたて、そこにまた家を建てたんだ。そういうのを立派なことだと考えている連中がまだいるんだ」
僕は黙ってビールを飲んだ。天井のスピーカーからボズ・スキャッグズの新しいヒットソングが流れていた。ジュークボックスはどこかに消えていた。
店の中の客は殆んどが大学生のカップルで、彼らはこざっぱりした服を着て水割りかカクテルを行儀よく飲んでいた。酔いつぶれそうな女の子もいなければ、びりっとした週末の喧騒もなかった。きっとみんな家に帰ったらパジャマに着替えて、きちんと歯を磨いて寝るのだろう。
でもそれはそれで良いことだ。世界にもバーにも、ものごとのあるべき姿なんてそもそものはじめから存在しないのだ。
ジェイはそのあいだずっと僕の視線を追っていた。
「どうだい、店が変っちまって落ちつかないだろう?」
「そんなことはないよ」と僕は言った。「混沌がその形を変えただけのことさ。きりんと熊が帽子をかえっこして、熊としまうまがえりまきをかえっこしたんだ」
「あいかわらずだね」とジェイは言って笑った。「ところで、子供は作らないの? もうそろそろ作ってもいい年だろう?」
「欲しくないんだ」
「そう?」
「だって僕みたいな子供が産まれたら、きっとどうしていいかわかんないと思うよ」
ジェイはおかしそうに笑って、僕のグラスにビールを注いだ。「あんたは先に先にと考えすぎるんだ」
「いや、そういう問題じゃないんだ。つまりね、生命を生み出すのが本当に正しいことなのかどうか、それがよくわからないってことさ。子供たちが成長し、世代が交代する。それでどうなる? もっと山が切り崩されてもっと海が埋め立てられる。もっとスピードの出る車が発明されて、もっと多くの猫が轢き殺される。それだけのことじゃないか」
「それは物事の暗い面だよ。良いことだって起きているし、良い人だっているさ」
「三つずつ例をあげてくれれば信じてもいいよ」と僕は言った。
ジェイはしばらく考えて、それから笑った。「でもそれを判断するのはあんたたちの子供の世代であって、あんたじゃない。あんたたちの世代は……」
「もう終ったんだね?」
「ある意味ではね」とジェイは言った。
「歌は終った。しかしメロディーはまだ鳴り響いている」
「あんたはいつも上手いことを言うね」
「気障なんだ」と僕は言った。
ジェイズ・バーが混みだした頃に、僕はジェイにおやすみと言って店を出た。九時だった。
夜は奇妙に暖かく、空はあいかわらずどんよりと曇っていた。湿った南の風がゆっくりと吹いていた。いつもと同じだ。海の匂いと雨の予感がいりまじっている。あたりはけだるいなつかしさに満ちていた。
ぼんやりとした水銀灯の白い光の中に川の流れが見えた。くるぶしまでしかない浅い流れだ。水は昔と同じように澄んでいた。山から直接流れ落ちてくるから汚れようもないのだ。川床は山から運ばれてくる小石やさらさらとした砂地で、ところどころに流砂どめの滝があった。滝の下には深いたまりがあって、そこには小さな魚が泳いでいた。
川沿いの道は僕の好きな道だった。水の流れとともに僕は歩く。そして歩きながら、川の息づかいを感じる。彼らは生きているのだ。彼らこそが街を作ったのだ。何万年という歳月をかけて 彼らは山を崩し、土を運び、海を埋め、そこに木々を繁らせたのだ。そもそもの最初から街は彼らのものだったし、おそらくこれから先もずっとそうなのだろう。
梅雨のおかげで、流れは川床に吸い込まれることもなく、ずっと海まで続いていた。川に沿って植えられた樹々の若い葉の匂いがした。
川は小さな入江のような、あるいは半分埋められた運河のような海に注いでいた。それは幅五十メートルばかりに切り取られた昔の海岸線の名残りだった。
砂浜は昔ながらの砂浜だった。小さな波があり、丸くなった木片が打ちあげられていた。海の匂いがした。コンクリートの防波堤には釘やスプレイ・ペンキで書かれた昔ながらの落書きが残されていた。五十メートルぶんだけ残されたなつかしい海岸線だった。
しかしそれは高さ10メートルもある高いコンクリートの壁にしっかりとはさみ込まれていた。そして壁はその狭い海をはさんだまま何キロも彼方にまでまっすぐに伸びていた。そしてそこには高層住宅の群れが建ち並んでいた。海は五十メートルぶんだけを残して、完全に抹殺されていた。
僕は川を離れ、かつての海岸道路に沿って東に歩いた。不思議なことに古い防波堤はまだ残っていた。海を失った防波堤はなんだか奇妙な存在だった。僕は昔よく車を停めて海を眺めていたあたりで立ちどまり、防波堤に腰かけてビールを飲んだ。
海のかわりに埋立地と高層アパートが眼前に広がっていた。のっぺりとしたアパートの群れは、空中都市を作ろうとして、そのままあきらめて放置された橋げたのようにも見えたし、父親の帰りを待ちわびている未成熟な子どもたちのようにもみえた。
物哀しい風景だった。
しかし僕にいったい何を言うことができるだろう?ここではすでに新しいルールの、新しいゲームが始まっているのだ。誰にもそれを止めることなんてできない。