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羊をめぐる冒険10 「羊男来たる」

時計が二時の鐘を打ち終えた直後に、ドアにノックの音がした。はじめに二回、そして呼吸ふたつぶんおいて三回。
それがノックであると認識できるまでにしばらく時間がかかった。

誰かがこの家の扉をノックすることがあるなど、僕には思いもよらないことだった。
鼠ならノックなしでドアを開けるだろう――なにしろここは鼠の家なのだ。
管理人なら一度ノックしてから返事を待たずにすぐにドアを開けるだろう。
彼女なら――いや、彼女であるわけはない。彼女は台所のドアからそっと入って来て、一人でコーヒーを飲んでいるだろう。玄関をノックするようなタイプではないのだ。

ドアを開けると、そこには羊男が立っていた。
羊男は開いたドアにもドアを開けた僕にもたいして興味はないといった格好で、ドアから二メートルばかり離れたところに立った郵便受けを珍しいものでも見るようにじっと睨んでいた。

羊男の背丈は郵便受けより少し高いだけだった。150センチというところだろう。おまけに猫背で足が曲っていた。
それに加えて僕の立っている場所と地面のあいだには15センチの差があったから、僕はまるでバスの窓から誰かを見下ろしているような具合になった。

羊男はその決定的な落差を無視しようとするかのように、横をむいて熱心に郵便受けを睨みつづけていた。郵便受けにはもちろん何も入ってはいなかった。

「中に入っていいかな?」と羊男は横を向いたまま早口で僕に訊ねた。何かに腹を立てているようなしゃべり方だった。
「どうぞ」と僕は言った。

羊男は頭からすっぽりと羊の皮をかぶっていた。彼のずんぐりとした体つきはその衣裳にぴったりとあっていた。腕と脚の部分はつぎたされた作りものだった。
頭部を覆うフードもやはり作りものだったが、そのてっぺんについた二本のくるくると巻いた角は本物だった。フードの両側には針金で形をつけたらしい平べったいふたつの耳が水平につきだしていた。
衣裳の首から股にかけてジッパーがついていて簡単に着脱できるようになっていた。

胸の部分にはやはりジッパーのついたポケットがあって、そこに煙草とマッチが入っていた。羊男はセブンスターを口にくわえてマッチで火をつけ、ふうっとため息をついた。
僕は台所まで行って洗った灰皿を持ってきた。

「酒が欲しいな」と羊男が言った。僕はまた台所に行って半分ばかり残ったフォア・ローゼズの瓶をみつけ、グラスを二個と氷を持ってきた。
我々はそれぞれのオン・ザ・ロックを作り、乾杯もせずに飲んだ。

「昨日の午前中にここに来ただろう?」と羊男は言った。「ずっと見てたんだ」
羊男は半分溶けた氷の上にとくとくとウィスキーを注ぎ、かきまわさずに一口飲んだ。
「で、午後に女が一人で出てった」

「それも見てたんだね?」
「見てたんじゃなくて、おいらが追い帰したんだ」
「追い帰した?」
「うん、台所のドアから顔を出して、あんた帰った方がいいって言ったんだ」
「どうして?」

羊男はすねたように黙り込んだ。どうして、という質問のしかたはおそらく彼にはふさわしくないのだろう。

「彼女は出ていく時に伝言か何か言っていかなかった?」
「いいや」と羊男は首を振った。「女は何も言ってないし、おいらは何も聞いてない」

「君が出ていった方がいいって言ったら、黙って出ていったんだね?」
「そうだよ。女が出ていきたがってたから出てった方がいいって言ったんだ」
「彼女は自分で望んでここまで来たんだ」

「違うよ!」と羊男はどなった。「女の方が出ていきたがってたんだ。でも自分でもとても混乱してたんだ。だからおいらが追い返したんだ。あんたが女を混乱させたんだ」
羊男は立ち上がって右の手の平でテーブルをばんとたたいた。ウィスキー・グラスが五センチばかり横に滑った。

羊男はしばらくそのままの姿勢で立っていたがやがて目の輝きが薄れ、力が抜けたようにソファーに腰を下ろした。

「あんたが女を混乱させたんだよ」と羊男は今度は静かに言った。「とてもいけないことだ。あんたには何もわかってないんだ。あんたは自分のことしか考えてないよ」
「彼女はここに来るべきじゃなかったってことだね?」
「そうだよ。あの女はここに来るべきじゃなかったんだ。あんたは自分のことしか考えてないんだよ」

羊男は立ちあがって部屋をぐるりと半周すると書棚の前に立ち、腕組したまま本の背表紙を眺めた。衣裳の尻の部分には小さな尻尾まではえていた。
後から見ると本物の羊が二本足で立ちあがっているとしか見えなかった。

「友だちを探してるんだ」と僕は言った。
「へえ」と羊男は背中を向けたまま興味なさそうに言った。
「ここにしばらく住んでいたはずなんだよ。つい一週間前までさ」

羊男は暖炉の前に立って棚の上のトランプをぱらぱらとめくった。
「背中に星の印がついた羊のことも探してるんだ」と僕は言った。
「見たこともないよ」と羊男は言った。

しかし羊男が鼠と羊について何かを知っていることは明らかだった。彼は無関心さを意識しすぎていた。答え方のタイミングが早すぎたし、口調も不自然だった。

僕は作戦を変え、いかにも相手にもう興味をなくしたという風をよそおってあくびをし、机の上の本を取ってページを繰った。
羊男は少しそわそわした感じでソファーに戻った。そして僕が本を読んでいるのをしばらく黙って眺めていた。

「本を読むのって面白いかね?」と羊男は訊ねた。
「うん」と僕は簡単に答えた。

羊男はそれからもまだぐずぐずしていた。僕はかまわずに本を読みつづけた。
「さっきは大声出して悪かったよ」と羊男は小さな声で言った。

「ときどきね、その、羊的なのと人間的なものとがぶつかってああなっちゃうんだよ。べつに悪気があったわけじゃないんだ。それにあんただっておいらを責めるようなことを言うから」
「いいさ」と僕は言った。

「あんたがあの女の人ともう会えないことについても気の毒だとは思うよ。でもそれはおいらのせいじゃないんだ」
僕はリュックのポケットからラークを三箱出して羊男に与えた。羊男は少し驚いたようだった。

「ありがとう。この煙草はじめてだよ。でもあんたはいらないのかい?」
「煙草はやめたんだ」と僕は言った。
「うん、それがいいよ」と羊男は真剣に肯いた。「たしかに体に悪いからね」

「僕はどうしても友だちに会わなくちゃならないんだ。そのためにずっとずっと遠くからここまで来たんだ」
羊男は肯いた。
「羊についても同じだよ」
羊男は肯いた。

「でもそれについては何も知らないんだね?」
羊男は哀し気に左右に首を振った。作りものの耳がひらひらと揺れた。しかし今回の否定は前の否定よりずっと弱かった。

僕はそれ以上何も質問しないことにした。羊男は動物と同じなのだ。
こちらが近づけば退くし、こちらが退けば近づいてくる。
ずっとここにいるのなら急ぐことはない。ゆっくり時間をかけて探り出していけばいいのだ。

「そろそろ帰るよ」と羊男は突然言った。「煙草をどうもありがとう」
「あんたの友だちとその羊が早くみつかるといいね」

「うん」と僕は言った。「それについて何かがわかったら教えてくれるね」
羊男はしばらく居心地悪そうにもじもじしていた。「うん、いいよ。教えるよ」

僕は少しおかしくなったが笑いをこらえた。羊男はどうも嘘をつくのが苦手であるようだ
羊男は手袋をはめてから立ちあがった。「また来るよ。何日先になるかはわからないけど、また来る」それから目が曇った。「迷惑じゃないだろうね?」

「まさか」と慌てて僕は首を振った。「是非会いたいよ」
「じゃ、来るよ」と羊男は言った。そして後手にばたんとドアを閉めた。しっぽがひっかかりそうになったが、無事だった。

僕がブラインドのすきまから見ていると、羊男は来た時と同じように郵便受けの前に立って、そのペンキのはげた白い箱をじっと睨んでいた。
そしてごそごそと身をよじって羊の衣裳に体をなじませてから、足早に草原を東の森に向けて突っ切っていった。

水平につき出た耳がプールの跳び込み台のように揺れていた。羊男は遠ざかるにつれて白いくすんだ点となり、遂には同じような色あいの白樺の幹のあいだに吸い込まれていった。

羊男が消えたあとも、僕はずっと草原と白樺の林を見つめていた。見つめれば見つめるほど羊男がこの部屋にさっきまで存在していたことに確信が持てなくなった。

しかしテーブルにはウィスキーの瓶とセブンスターの吸殻が残っていたし、向いのソファーには羊の毛が何本か付着していた。
僕はランドクルーザーの後部座席でみつけた羊の毛とそれを比べてみた。同じだった。

羊男が帰ったあとで、僕は頭を整理するために台所でハンバーグ・ステーキを作った。玉ねぎをみじん切りにしてフライパンで炒め、そのあいだに冷凍庫から出した牛肉を解凍して中目のミシンで挽いた。

台所はどちらかといえばさっぱりしていたが、それでもひととおり以上の調理器具と調味料は揃っていた。道路さえきちんと舗装すればこのままここで山小屋風レストランが開けそうだった。
窓を開け放ち、羊の群れと青い空を眺めながら食事をするというのも悪くないはずだ。

鼠が経営し、僕が料理を作る。羊男にも何かできることはあるはずだ。山小屋レストランでなら彼の突飛な衣裳もごく自然に受け入れられるだろう。
それから羊飼いとしてあの現実的な緬羊管理人を加えてもいい。現実的な人間も一人くらいはいてもいい。
犬も必要だ。羊博士もきっと遊びに来てくれるだろう。

僕は木のへらで玉ねぎをかきまわしながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。考えるにつれて、あの素敵な耳のガールフレンドを永遠に失ってしまったのかもしれなという思いが重くのしかかってきた。
羊男の言うとおりかもしれない。僕はたぶん一人でここへやってくるべきだったのだ。僕はたぶん・・・・・・、僕は頭を振った。そしてレストランのつづきを考えることにした。

ジェイ、もし彼がそこにいてくれたなら、いろんなことはきっとうまくいくに違いない。全ては彼を中心に回転するべきなのだ。許すことと憐れむことと受け入れることを中心に。

「風の特殊なとおり道」につづく >>>

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