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羊をめぐる冒険15 「時計のねじをまく鼠」

鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった。ほんの何秒であったのかもしれないが、それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった。口の中がからからに乾いた。
「そうだよ」と鼠は静かに言った。「俺は死んだよ」

「台所のはりで首を吊ったんだ」と鼠は言った。「羊男がガレージのわきに埋めてくれた。死ぬことはそれほど苦しくはなかったよ。もし君がそれを心配してくれているのならね。でも本当はそんなことはどうでもいいんだ」

「いつ?」
「君がここに来る一週間前だよ」
「その時に時計のねじを巻いたんだね?」

鼠は笑った。「まったく不思議なもんさ。だって30年にわたる人生の最後の最後にやったことが時計のねじを巻くことなんだぜ。
死んでいく人間が何故時計のねじなんて巻くんだろうね。おかしなもんだよ」

鼠が黙るとあたりはしんとして、時計の音だけが聞こえた。雪がそれ以外の全ての音を吸いこんでいた。まるで宇宙の中に我々二人だけがとり残されたような気分だった。

「もし・・・」
「よせよ」と鼠が僕の言葉を遮った。「もう、もしはないんだよ。君にもそれはわかっているはずだ。そうだろ?」
僕は首を振った。 僕にはわからないのだ。

「もし君が一週間早くここに来ていたとしても、やはり俺は死んでいたよ。そりゃ、もっと明るくて暖かいところで会えたかもしれない。
でも、同じさ。俺が死ななくちゃならなかったことには変りないんだ。もっとつらくなっただけさ。それにそういうつらさには俺はきっと耐えられないよ」

「なぜ死ななくちゃいけなかったんだ?」
暗闇の中で手のひらをこすりあわせる音が聞こえた。

「簡単に言うと、俺は羊を呑み込んだまま死んだんだ」と鼠は言った。「羊がぐっすりと寝込むのを待ってから台所のはりにロープを結んで首を吊ったんだ。奴には逃げ出す暇もなかった」

「本当にそうしなきゃならなかったのか?」
「本当にそうしなきゃならなかったんだよ。もう少し遅かったら羊は完全に俺を支配していただろうからね。最後のチャンスだったんだ」

鼠はもう一度手のひらをこすりあわせた。「俺はきちんとした俺自身として君に会いたかったんだ。俺自身の記憶と自身の弱さを持った自身としてね。
君に暗号のような写真を送ったのもそのせいなんだ。もし偶然が君をこの土地に導いてくれるとしたら、俺は最後に救われるだろうってね」

「それで救われたのかい?」

「救われたよ」と鼠は静かに言った。

「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は続けた。「すべてはそこから始まってるんだ。その弱さを君は理解できないだろうな。君にはそういう面はないからね。
弱さというのは遺伝病と同じなんだよ。どれだけわかっていても、自分でなおすことはできないんだ。
何かの拍子に消えてしまうものでもない。どんどん悪くなっていくだけさ」

「何に対する弱さなんだ?」
「全てだよ。道徳的な弱さ、意識の弱さ、そして存在そのものの弱さ」

僕は笑った。うまく笑うことができた。「だってそんなことを言い出せば弱くない人間なんていないぜ」

「一般論は止そう。もちろん人間はみんな弱さを持っている。しかし本当の弱さというものは本当の強さと同じくらい稀なものなんだ。
たえまなく暗闇にひきずりこまれていく弱さというものを君は知らないんだ。そしてそういうものが実際に世の中に存在するのさ。何もかもを一般論でかたづけることはできない」

僕は黙っていた。
「だからこそ俺はあの街を出た。これ以上堕ちていく自分を人前に曝したくなかったんだ。君も含めてね。一人で知らない土地を歩きまわっていれば、少くとも誰にも迷惑をかけずに済む。結局のところ」と言ってから、鼠はひとしきり暗い沈黙の中に沈みこんだ。

「結局のところ、俺が羊の影から逃げきれなかったのもその弱さのせいなんだよ。俺自身にはどうにもならなかったんだ。
たぶんその時君がすぐに来てくれたとしても俺にはどうしようもなかっただろうと思うよ。もし決心して山を下りたとしても同じだったよ。
俺はきっとそこに再び戻っただろうからね。弱さというのはそういうものなんだよ」

「羊は君に何を求めたんだ?」
「全てだよ。何から何まで全てさ。俺の体、俺の記憶、俺の弱さ、俺の矛盾。羊はそういうものが大好きなんだ。
奴は触手をいっぱい持っていてね、俺の耳の穴や鼻の穴にそれを突っこんでストローで吸うみたいにしぼりあげるんだ。そういうのって考えるだけでぞっとするだろう?」

「その代償は?」
「俺にはもったいないくらい立派なものだよ。もっとも羊はきちんとした形でそれを俺に示してくれたわけじゃないけれどね。俺はあくまでそのほんの一部を見ただけにすぎないんだ。それでも…」
鼠は黙った。

「それでも、俺は叩きのめされたよ。どうしようもないくらいね。それを言葉で説明することはできない。それはちょうど、あらゆるものを呑みこむるつぼなんだ。
気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいくらいに邪悪なんだ。そこに体を埋めれば、全ては消える。意識も価値観も感 情も苦痛も、みんな消える。宇宙の一点に凡る生命の根源が出現した時のダイナミズムに近いものだよ」

「でも君はそれを拒否したんだね?」
「そうだよ。俺の体と一緒に全ては葬られたんだ。 あとひとつだけ作業をすれば、永遠に葬られる」
「あとひとつ?」
「あとひとつだよ。 それはあとで君にやってもらうことになる。しかし今はその話はよそう」

我々は同時にビールを飲んだ。少しずつ体が暖かくなっていった。

「先生の目指していたものはいったい何だったんだ?」
「彼は狂っていたんだよ。きっとあのるつぼの風景に耐えられなかったんだな。羊は彼を利用して強大な権力機構を作りあげた。
そのために羊は彼の中に入り込んだんだ。いわば使い捨てさ。思想的にはあの男はゼロさ」

「そして先生が死んだあとに君を利用してその権力機構を引き継ぐことになっていたんだね」
「そうだよ」

「そのあとには何が来ることになっていたんだ?」
「完全にアナーキーな観念の王国だよ。そこではあらゆる対立が一体化するんだ。その中心に俺と羊がいる」

「何故拒否したんだ?」
時は死に絶えていた。死に絶えた時の上に音もなく雪が積っていた。

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや・・・」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「わからないよ」

僕は言葉を探した。しかし言葉はみつからなかった。僕は毛布にくるまったまま暗闇の奥をみつめた。

「君はなるべく早く山を下りた方がいいな。雪にとじこめられちまわないうちにさ」と鼠が言った。
「君はどうする?」

鼠は暗闇の奥で楽しそうに笑った。「おれにはもうこれからなんてものはないんだよ。一冬かけて消えるだけさ。
その一冬というのがどの程度長いものなのか俺にはわからないが、とにかく一冬は一冬さ。
君に会えて嬉しかったよ。できればもっと暖かくて明るいところで会いたかったけれどね」

「ジェイがよろしくって言ってたよ」
「俺からもよろしくって言っておいてくれないか」
「彼女にも会ったよ」

「どうだった?」
「元気だったよ。まだ同じ会社に勤めてたよ」
「じゃあまだ結婚してないんだね?」

「うん」と僕は答えた。
「終ったのか終ってないのかって、君に訊きたがってた」

「終ったんだよ」と鼠は言った。「俺一人の力で終らせることはできなかったにしても、とにかㄑ終ったんだ。俺の人生は何の意味もない人生だった。
しかしもちろん君の好きな一般論を借りれば、誰の人生だって何の意味もないということになる。そうだね?」

「そうだ」と僕は言った。「最後にふたつだけ質問がある」
「いいとも」

「まずひとつは羊男のことだ」
「羊男はいい奴だよ」
「ここに来た時の羊男は君だったんだろう?」

鼠は首を回してぽきぽきという音を立てた。「そうだよ。彼の体を借りたんだ。君にはちゃんとわかっていたんだね?」
「途中からさ」と僕は言った。「途中まではわからなかったよ」

「それで、もうひとつの質問というのは君のガールフレンドのことだろう?」
「そうだよ」
鼠は長いあいだ黙っていた。手がこすりあわされ、それからため息が聞えた。「彼女のことについてはできれば話したくなかったんだ。彼女は計算外のファクターだったからね」

「計算外?」
「うん。俺としてはこれは内輪だけのパーティーのつもりだったんだ。 そこにあの子が入り込んできた。俺たちはあの子を巻き込むべきじゃなかったんだ。
君も知っているようにあの子は素晴しい能力を持っている。 いろんなものを引き寄せる能力。
でもここには来るべきじゃなかった。ここは彼女の能力を遥かに超えた場所なんだ」

「彼女はどうなったんだ?」
「彼女は大丈夫だよ。元気だよ」と鼠は言った。「ただ彼女はもう君をひきつけることはないだうね。可哀そうだとは思うけれどね」

「何故?」
「消えたんだよ。彼女の中で何かが消えてしまったんだ」
僕は黙り込んだ。

「君の気持はわかるよ」と鼠は続けた。「でもそれは遅かれ早かれいつかは消えるはずのものだったんだ。俺や君や、それからいろんな女の子たちの中で何かが消えていったようにね」
僕は肯いた。

「そろそろ俺は行くよ」と鼠は言った。「あまり長くはいられないんだ。きっとまたどこかで会えるだろう」

「そうだね」と僕は言った。

「できればもう少し明るいところで、季節が夏だといいな」と鼠は言った。

「最後にひとつだけ。明日の朝九時に柱時計をあわせて、それから柱時計の裏に出ているコードを接続しておいてほしいんだ。
緑のコードと緑のコード、赤のコードと赤のコードをつなぐ。そして九時半にここを出て山を下りてほしい。十二時にちょっとした仲間うちでのお茶の会があるんだ。いいね」

「そうするよ」
「君に会えて嬉しかったよ」

沈黙が一瞬我々二人を包んだ。

「さようなら」と鼠は言った。
「また会おう」と僕は言った。

僕は毛布にくるまったままじっと目を閉じて耳を澄ませていた。鼠は乾いた靴音を立ててゆっくりと部屋を横切り、ドアを開けた。
凍りつくような冷気が部屋に入り込んできた。風はなく、じっくりと浸み込むような沈んだ冷気だった。

鼠はドアを開けたまま、しばらく戸口にたたずんでいた。彼は外の風景でもなく、部屋の内部でもなく、僕の姿でもない、まったくべつの何かをじっと眺めているようだった。
ドアのノブか自分の靴先でも眺めているようなそんな感じだった。

それから時間の扉を閉めるように、小さなかちりという音を立ててドアを閉じた。あとには沈黙だけが残った。

沈黙の他には何も残らなかった。

 

「12時のお茶会」につづく >>>

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