鼠のかつての恋人は、現実の生活を静かに営む一人の自立した女性へと変わっていました。
彼女は手紙を手に取り、そこに込められた鼠の決別ともとれる意図を、言葉少なに、しかし深く受け止めます。
親友がかつて愛した女性の現在(いま)を確認した「僕」は、心置きなく旅立つ準備を整え、「耳のモデル」の彼女とともに札幌に渡ります。しかし、手元にあるのは「羊の写真」が一枚きり。広大な北の大地を前に、「僕」の探索は暗礁に乗り上げます。
そんな折、彼女が宿泊先に指定したのは、場末にひっそりと佇む「いるかホテル」でした。名前通りどこか奇妙で、古びて薄暗いその場所を選んだ理由を、彼女はただ「それ以外泊まるべきホテルがないような気がするの」とだけ告げます。
「僕」が連日、図書館や役所に通い詰めて戦前の羊飼育の記録を執拗に掘り起こしたり、「鼠、連絡を乞う 至急!!!!いるかホテル406」という新聞広告を出したりする一方で、彼女はホテルの部屋で静かに「時」を待ち続けます。
まるで、羊の側から自分たちを見つけに来るのを確信しているかのように。焦りを感じていたある日、「僕」はホテルのスタッフから声をかけられます。
「お仕事の方はいかがですか?」と、いるかホテルのフロント係は、鉢植えに水をやりながら、おそるおそる僕に訊ねた
「あまりぱっとしないね」と僕は言った。
「新聞に広告をお出しになりましたようで」
「そうなんだ」と僕はいった。「土地の遺産相続のことで人を捜してるんですよ」
「遺産相続?」
「そう。なにしろ相続人が行方不明ときてるから」
「なるほど」と彼は納得した。「面白そうな御職業で」
「そんなこともないですよ」
「しかしどことなく『白鯨』のような趣きがあります」
「白鯨?」と僕は言った。
「そうです。何かを探し求めるというのは面白い作業です」
「マンモスとか?」と僕のガール・フレンドが訊ねた。
「そうです。なんだって同じです」とフロント係は言った。「私がここを、いるかホテルと名付けましたのも、実はメルヴィルの『白鯨』にいるかの出てくるシーンがあったからなんです」
「ほう」と僕は言った。「しかしそれならいっそのこと鯨ホテルにでもすればよかったのに」
「鯨はあまりイメージがよくないんです」と残念そうに彼は言った。
「いるかホテルってすてきな名前よ」とガールフレンドが言った。
「どうもありがとうございます」とフロント係はにっこりした。「ところでこのように長期滞在していただきましたのも何かのご縁ということで、お礼のしるしにワインなどをさしあげたいと思うのですが?」
「嬉しいわ」と彼女は言った。
「どうもありがとう」と僕は言った。
彼は奥の部屋にひっこむと、しばらくしてから冷えた白ワインとグラスを三つもってやってきた。
「まあ乾杯ということで、仕事中ですが私もしるしだけ」
「どうぞどうぞ」と我々は言った。
そして我々はワインを飲んだ。それほど高級なものではないけれど、さっぱりとした気持の良い味のワインだった。グラスも葡萄のがらのすかしが入ったなかなか粋なものだった。
「『白鯨』が好きなんですね?」と僕は訊ねてみた。
「ええ、それで小さい頃から船乗りになろうと思っていたんです」
「それで今はホテルを経営しているのね?」と彼女が訊ねた。
「このとおり指を失くしてしまいましたもので」と男は言った。「実は貨物船の積荷を下ろしているうちにウィンチにまきこまれちゃったんです」
「可哀そうに」と彼女は言った。
「その時は目の前が真っ暗になりましたね。でもまあ、人生というのはわからんものです。なんとか今ではこのようにホテルを一軒持てるようになりました。たいしたホテルではありませんが、それなりになんとかやっております。これでもう十年になりますか」
「最高に立派なホテルよ」と彼女が励ました。
「どうもありがとうございます」と支配人は言って、我々のグラスに二杯めのワインを注いでくれた。
「でも十年にしては、なんというか、建物に風格がありますね」と僕は思いきって訊ねてみた。
「ええ、これは戦後すぐに建てられたんですよ。ちょっとした縁がありまして安く買いとることができました」
「ホテルの前にはいったい何に使われていたんですか?」
「北海道緬羊会館という名になっておりまして、緬羊に関する様々な事務と資料を…..」
「緬羊?」と僕は言った。
「羊です」と男が言った。