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羊をめぐる冒険8 「十二滝町のさらなる転落と羊たち」

旅館は商店街の先の坂道を下り、右に曲って三百メートルほど進んだ川沿いにあった。
感じの良い古い旅館で、町にまだ活気があった当時の面影が残っていた。
川に向って、よく手入れされた庭が広がり、その隅ではシェパードの仔犬が食器に顔をつっこんで早めの夕食を食べていた。

「登山ですか?」と部屋に案内してくれた女中が訊ねた。
「登山です」と僕は簡単に言った。
広い部屋で、廊下に出ると列車の窓から見たのと同じカフェオレ色の川が見下ろせた。

彼女が風呂に入りたいと言ったので、僕はそのあいだに一人で町役場に行ってみることにした。
町役場は商店街を二本西にそれた、がらんとした通りにあったが、想像していたよりずっと新しくきちんとした建物だった。

僕は町役場の畜産課の窓口で、二年ばかり前フリーライターのまねごとをしていた時に使った雑誌名入りの名刺を出して、緬羊飼育についてうかがいたいのですが、と切り出した。
女性週刊誌で緬羊の取材をするというのも妙な話だったが、相手はすぐに納得して中に通してくれた。

「町には現在200頭あまりの緬羊がおりまして、全部サフォークです。つまり食肉用ですね。肉は付近の旅館や飲食店に出荷されていまして、非常に好評です」
僕は手帳をひっぱり出して適当にメモを取った。
おそらく彼はこれから何週間かこの女性週刊誌を買いつづけることだろう。そう思うと心が暗くなった。

「山の上に古い牧場があると聞いたんですが?」ひとしきり緬羊飼育の状況を聞いたあとで、僕は訊ねた。
「ええ、ありますよ。戦前まではちゃんとした牧場だったんですが、戦後米軍に接収されましてね。返還後10年ばかりはどこかのお金持ちが別荘として使っていたんですが、なにしろ交通の便が悪いものですから、そのうち誰も来なくなって空家同然ですね。だから町に貸与してもらっています。本当は観光牧場にでもすればいいんでしょうが、貧乏な町ではどうしようもないですね」

「貸与?」
「夏には町の緬羊牧場のものが五十頭ばかり羊を連れて山に上ります。 牧場としてはなかなか良い牧場ですし、町営の牧草地だけでは草が足りないものですから。それで九月の後半になって天候が崩れ始めるとまた羊をつれて帰ってくるんです」

「羊を連れていく人間は何人ですか?」
「一人です。 この十年ばかり同じ人間がそれをつづけてやっています」
「その人に会ってみたいですね」

職員は町営の緬羊飼育場に電話をかけてくれた。
「今からいらっしゃれば会えますよ」と彼は言った。「車で送りましょう。ここにはタクシーもないんです」

職員の運転してくれる軽自動車は西へ向かった。長いコンクリートの橋をわたって、寒々しい湿地帯を抜け、山に入るゆるやかな坂道を上っていった。タイヤのまきあげる砂利がぱちぱちと乾いた音を立てた。

「東京からいらっしゃると、死んだ町みたいに見えるでしょう?」と彼は言った。
僕は曖昧な返事をした。
「でも実際に死にかけてるんですよ。鉄道のあるうちはまだ良いけれど、なくなってしまえば本当に死んでしまうでしょうね。町が死んでしまうというのは、どうも妙なもんです。人間が死ぬのはわかる。でも町が死ぬというのはね」

「町が死ぬとどうなるんですか?」
「どうなるんでしょうね? 誰にもわからんのです。わからないままにみんな町を逃げ出していくんですよ。もし町民が千人を割ったら、ということも十分あり得ることなんですが、我々の仕事も殆んどなくなってしまいますからね。我々も本当は逃げ出すべきなのかもしれない」
僕は彼に煙草を勧め、羊の紋章入りのデュポンのライターで火をつけてやった。

「札幌に行けば良い仕事があるんですよ。叔父が印刷会社をやっていて、人手が足りないんです。学校相手の仕事ですから経営も安定してますしね。本当はそれがいちばん良いんですよ。こんなところで羊や牛の出荷頭数を調べてるよりね」
「そうですね」と僕は言った。

「あなたはこの町の生まれですか?」と僕は訊ねてみた。
「そうです」と彼は言って、それっきり何もしゃべらなかった。陰鬱な色あいの太陽が三分の一ばかり山に沈んでいた。

緬羊飼育場の入口には二本のポールが建っていて、ポールのあいだに「十二滝町営緬羊飼育場」という看板がわたされていた。看板をくぐると坂道があり、坂道は紅葉した雑木林の中に消えていた。

「林を抜けると牧舎があって、管理人の住居はその裏にあります。帰りはどうしますか?」
「下り道だから歩けますよ。どうもありがとう」
車の姿が見えなくなってしまってから、僕はポールのあいだを抜け、坂道を上った。

太陽の最後の光が黄色く染ったかえでの葉にオレンジの色どりを加えていた。樹々は高く、まだらの光が林を抜ける砂利道の上にちらちらと揺れていた。

僕が牧舎に入ると、200頭の羊たちは一斉に僕の方を向いた。
半分ばかりの羊は立ち、あとの半分は床に敷きつめられた枯草の上に座っていた。
彼らの目は不自然なほど青く、まるで顔の両端に湧き出した小さな井戸のように見えた。

それは正面から光を受けると義眼のようにきらりと光った。彼らはじっと僕を見つめていた。誰も身動きひとつしなかった。
何頭かは口の中に入れ た枯草をかたかたという音を立てて噛みつづけていたが、それ以外には物音ひとつしなかった。
何頭かは柵から頭をつき出して水を飲んでいたが、彼らは水を飲むのをやめて、そのままの姿勢で僕を見上げていた。

彼らはまるで集団で思考しているように見えた。彼らの思考は僕が入口に立ち止まっていることで一時中断していた。
何もかもが停止し、誰もが判断を保留していた。
僕が動き始めると、彼らの思考作業も再開された。

八つに分断された棚の中で羊たちは動き始めた。牝を集めた囲いの中では牝たちは種牡のまわりに集まり、牡羊だけの囲いの中では彼らはあとずきりしながらそれぞれに身構えた。好奇心の強い何頭かだけが棚から離れずにじっと僕の動きを見つめていた。

サフォークはどこかしら奇妙な雰囲気のある羊だ。何もかもが黒く、体毛だけが白い。
耳は大きく、それが蛾の羽のように真横につき出している。
暗闇に光る青い目とはりのある長い鼻梁にはどことなく異国的な趣きがあった。
彼らは僕の存在を拒否するでもなく受け入れるでもなく、いわば一時的に与えられた情景として眺めていた。

太陽は山の後に没し去ろうとしていた。
淡い藍色の闇が水で溶いたインクのように山の斜面を覆っていた。

管理人は納屋の横にあるコンクリートの溝のわきに、消毒薬のビニール袋を積み上げていた。
彼は近づいていく僕の姿を遠くから一度ちらりと眺め、それっきりたいした関心もなさそうに作業を続けていた。僕が溝まで辿りつくと、彼はやっと手を休めて首に巻いたタオルで顔の汗を拭いた。

男は背は僕より五センチほど低かったが、がっしりとした体つきをしていた。年は四十代後半で、短かく切った固い髪はまるでヘア・ブラシのようにまっすぐだった。
彼は作業用のゴム手袋を皮膚でもひきはがすみたいに指から抜きとり、ぱんぱんと腰のところで払ってからズボンのパッチ・ポケットにつっこんだ。緬羊の飼育係というよりは、新兵教育係の下士官みたいに見えた。

「何かが聞きたいらしいね」
「そうです」
「聞いてくれよ」

「このお仕事は長いんですか?」
「十年」と男は言った。「長いとも言えるし、長くないとも言える。でも羊のことならなんでも知ってるよ。その前は自衛隊に居たんだ」
彼は手拭いを首にまいて空を見上げた。

「羊を連れて歩くのはむずかしいんですか?」
「簡単さ。人間は昔からずっとそうしてきたんだ。羊飼いが放牧場に定着したのはつい最近のことでね、その前は年じゅう羊を連れて旅してたんだ。16世紀のスペインでは羊追いしか使えない道が国中にはりめぐらされていて、王様もそこには入れなかったんだ」

「今は山の上には誰もいないんですね?」
「別荘の持ち主以外はね」

「別荘の持ち主? 別荘はもうずっと使われてないって聞いたけど」
管理人は煙草を地面に捨てて、靴で踏み消した。

「ずっと使われてなかったんだよ。でも今は使われてる。使おうと思えばいつでも使えるんだ。家屋の手入れは、俺がきちんとやってきたしね。電気もガスも電話もすぐに使えるし、窓ガラス一枚割れていない」
「役場の人はあそこには誰もいないって言ってましたよ」

「あいつらの知らんことはいっぱいあるさ。俺は町の仕事とは別に別荘の持ち主にずっと個人的に雇われてるわけだし、余計なことは誰にも言わないよ。しゃべるなって言われてんだ」
男は作業着のポケットから煙草を取り出そうとしたが箱は空っぽだった。

僕は半分ばかり吸ったラークの箱に二つ折りにした一万円札を添えて彼に差し出した。男はしばらくそれを眺めてから受け取り、煙草を一本口にくわえてから残りを胸のポケットにつっこんだ。

「悪いな」
「で、持ち主はいつから来たんですか?」

「春。雪溶けがまだ始まってない頃だから三月だね。何で今ごろになってくるのかわからんけど、まあそれは持ち主の勝手であたしらの口出すことじゃないもんな。誰にも言わんでくれということだから事情でもあるんだろうよ。とにかくそれからずっと上にいるよ。食料品や石油なんかは俺がこっそり買って、ジープで少しずつ届けてるんだ。あれだけストックがありゃ、あと一年は持つね」

「その男は僕と同じくらいの年で、ひげをはやしてませんか」
「うん」と管理人は言った。「そのとおりだ」

「やれやれ」と僕は言った。写真を見せるまでもない。

「彼女は山を去る、そしておそう空腹感」につづく >>>

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