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KLMにてアムステルダム経由でポーランド・ワルシャワに到着

成田空港 11:30→16:20 アムステルダム・スキポール空港(AMS) 20:00→21:55 ポーランド・ショパン空港(WAW)

「東欧諸国をのんびり列車旅行」という念願かなった今回、旅の道連れは「長野の関口知宏」と呼ばれているかどうかは不明の「上さん」と「篠さん」の二人。

KLMオランダ航空機の座席は、非常口近くの足元がゆったりと広いシートへと、昨日のうちにネットで変更しておいた。50ユーロの追加料金が必要だが、狭い座席に半日も体を折り曲げる苦痛からは解放される。

なるほど、シートは足を伸ばせて快適なうえ、対面シートに座っているキャビンアテンダントと差し向いのお見合い状態である。

 

 

 

 

 

上さんは照れくさいといって、彼女とは斜め方向、非常口の出っ張りがあって若干窮屈な窓際席を志願した。

彼女の真ん前に陣取った篠さんはといえば、鼻をヒクヒクさせてご満悦である。

 

今年の春、私はドイツからオランダへ、上さんと篠さんはオランダからベルギーへと旅しており、今日は乗継便の待ち時間を利用して、勝手知ったる懐かしいアムステルダム市街へと足を伸ばすことにした。

スキポール空港の地下1階から電車に乗り、15分ほどで市街中心部のセントラル駅へ。さらにトラムへと乗り換えて、ガイドブックで目星をつけておいた郷土料理店「ハーシュクラーシュ」に到着、ビール・スープ・魚料理・肉料理を注文する。まるで今夜はアムステルダムに泊まるかの勢いだ。

料理は順番にゆっくり出されてくる。ポーランドへの乗継便は20時出発予定なのだが、すでに18時に近い。搭乗券は手元にあるとはいえ、国際線は2時間前に空港集合というのが通例だ。なのに我々は、空港とは方向違いの街中で、料理が出てくるのをポカーンと待っているのだ。

果たして間に合うのか?不安が胸をよぎった時、篠さんがおもむろに立ち上がった。「おお、先に勘定を済ませておこうという配慮か。さすがだ」尊敬のまなざしを向ける私に篠さんは一言、「まだ時間がかかりそうだから、ちょっと一服してくる」と言い残して表通りに出て行った。

ぱんぱんに張った腹を揺らして、気ぜわしくトラムに乗り込んだ時には、18時を大きく回っていた。と背後から「こんにちは」と日本語で声をかけられた。

振り向くと三人の若者が、にこやかに我々を見つめている。聞けば、和歌山県に留学経験があるという学生だ。

遠く離れたオランダで、日本を留学先に選んでくれたのは嬉しいことだ。日本は彼らの期待に応える国でありえただろうか。ゆっくり話をしたいところだが、先を急がなければならない。トラムを降り、空港行きの列車に発車ぎりぎりに滑り込む。

19時過ぎ、空港に到着。出国審査はスムーズに進むも、搭乗券にプリントされた出発ゲートはウィングの一番端だ。きらびやかな免税店が連なり、「デパート並みの品揃え」と評されるスキポール空港の広さを、身を持って実感することになる。

階段を一段飛ばしで駆け下りて、しかし辿り着いたゲートに人影はなく、電光掲示板には「GATE  CHANGED」の表示。今度は階段を一段飛ばしで駆け上がり、ようやく出発ゲートにたどり着く。機体は予定どおり20時に離陸。

ポーランド・ショパン空港に21:55到着。両替所があったので現地通貨(ズフォーテ・zt)を手に入れてさらに進むと、数個の荷物を乗せたベルトコンベアがゴトゴト回っていた。

我々の荷物が出てくるのを待っていたが、そのうちベルトコンベアはゴトンといって止まったまま動かなくなってしまった。しばらく待つも動く気配がないので、通りがかりの係員に訊くと「通路を進め」と言っているようだ。

このコンベアは、行先不明など特別の事情がある荷物を扱う専用レーンらしいのだが、紛らわしい場所にあるものだ。たしかに、入国審査が済んでから荷物受け取りというのが通常のパターンではあるが。

言われたとおり進むと別のコンベアがあり、取り残された我々の荷物だけが心細げにグルグル回っていた。結局、入国の審査がないまま空港を出てタクシーに乗り込む。

今夜の宿泊は「GARDEN BILLA」。タクシーの運転手は宿名を知らなかったが、住所を告げると「わかった」とばかり車をスタートさせた。

車窓から眺めると道路標識や商業看板が道路わきの低いポジションに設置されており、目線を上げる必要がないので見やすい。

上さんが「日本から来た上田です。あなたの名前は何ですか?」とポーランド語で運転手に話しかける。一言二言、現地語を使うだけでぐっと和やかな雰囲気になる。

100年以上にわたり独立がなく、ロシアやドイツによる列強分割が続いた時代にあっても同化されず、自国語を守り続けたポーランドでは、特にその傾向が強いといわれる。

宿の住所地に着いたが、周囲を鉄の柵に囲まれた公園のような場所で、車は乗り入れることができない。タクシーが走り去り、エンジン音が消えると辺りは静かになった。

暗い門をくぐると木立の中に3階建ての大きな建物があって、壁にペンキで「HOSTEL」と書かれている。が、重々しい木の扉は固く閉ざされて呼び鈴はなく、ドアを叩いてもまったく反応がない。

どうしたものかと扉の前で思案していると、3人連れの若者が我々と同じ方角からやって来た。宿のありかを尋ねると、彼らは爆笑しながら我々を先導した。

彼らの後について建物を90度回り込むと何のことはない、宿の玄関が姿を現した。さきほどの扉は、改装の際に使われなくなった古い出入り口のようだ。

チェックインを済ませて部屋に入るものの、買い出しをしていなかったので、手持ちの食糧はすぐ底をついてしまった。

すでに24時近くになり、特にすることもないので、篠さんの携帯から日本に電話をかけてみる。時差は7時間なので、ちょうど日本は早朝だ。

マニュアルどおり、日本の国番号「81」に続けて電話番号先頭の「0」をはずしてダイヤルするも、つながらない。あれこれ試しているうち結局、日本国内と同じように電話番号をそのままダイヤルするだけで通話ができた。我々は「なぁーんだ」という顔をしながら、「便利な世の中になったもんだね」というお決まりのセリフを交わしてベッドにもぐり込む。

低く、くぐもりながら枕辺まで届いてくる、ロビーでの若者たちの談笑を子守歌代わりに眠りに落ちた。

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