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バスはバハ・フンダ駅に到着、サンパウロ地下鉄でリベルダージ日本人街へ

昨日の昼過ぎにコルンバを出発したバスは一昼夜近くを走り続け、朝8時にドライブインにピットインした。朝食タイムだが、ビュッフェに並ぶメニューは相変わらずカロリー高めである。

お腹が空いていたので、朝から揚げ物をチョイス。 42.82BRL(1500円)

サンパウロには三ヶ所の長距離バスターミナルがあって、コルンバやカンポグランジ、クイアバからのバスは市内北西部の「バハ・フンダ」ターミナルに到着する。

シニア海外協力隊員として半年間、サンパウロに派遣されている菅谷さんとそこで落ち合う予定だが、到着時刻の10:45を回ってもバスは一向に市街地に入る気配がない。

車内でWi-Fiが使えたため、菅谷さんとはラインで連絡を取りながら落ち合う時刻を調整、結局2時間近く遅れてバスはバハ・フンダに到着した。

無事に菅谷さんと再会。握手を交わし早速、彼が住むリベルダージ地区にメトロで向かう。

サンパウロの交通機関には、メトロ・モノレール・近距離列車(CPTM)・市バスの4種類がある。

メトロは現在5路線が運行しており、運賃は一律4BRL(140円)だ。自動販売機でなくブースで切符を買うときは、Um bilhete por favor (ウン・ビリェッチ・ポルファヴォール = 切符1枚ください)  と言えばオーケー。

プラットホームに入るときは日本同様、自動改札機に切符を入れるのだが、運賃が一律のため、入れた切符はそのまま回収されて戻って来ない。

メトロの路線は色別に区分されており、我々はまず、赤路線(リーニャ・ヴェルメーリャ)で5つ目のセー駅 (サンパウロの中心地) まで行き、青路線(リーニャ・アズウ)に乗り換えた。ほどなく一つ目の駅が「リベルダージ」だ。

リベルダージには、アメリカ・ロサンゼルスの「リトル・トーキョー」と並ぶ、世界最大規模の日本人街があることで有名だ。

1908年、ブラジル・サントス港に781名を乗せた笠戸丸が到着して以降、多くの日本人移民が渡伯してきたが、日本の商店や映画館があったリベルダージ地区に日本人が集まり始め、やがて日本人街が形成されてきた。しかし最近は、日系ブラジル人の現地への同化とともに日本人の人口が減少し、それと入れ替わるように中国人や韓国人の移民が多く転入してきたことにより、2004年に「日本人街」から「東洋人街」へと改名されている。

サンパウロと大阪市が姉妹都市提携した際に設置された「大阪橋」
真っ赤な大鳥居は町のシンボルになっている。

 
日本人がブラジルに移民した背景には、日伯双方の事情かあった。

ブラジルは1888年に奴隷制度廃止を行ったことで、農業労働者が不足しており、一方の日本は、1904年の日露戦争で勝利をおさめたものの、ロシアから賠償金を得られなかったこともあり経済は混乱し、農村の貧しさが深刻になっていた。
また、アメリカ西海岸一帯を中心に、人種差別を基にした日本人移民排斥が激しくなったため、日本政府は1900年からアメリカへの移民を制限していた事情もあった。  
移民総監督として笠戸丸で渡伯、「移民の父」と讃えられる上塚周平(うえつかしゅうへい)。
本拠をサンパウロ市に定め、移民と共に苦渋を嘗めながら、生涯を植民地の運営に捧げた。俳句を趣味とし、「夕ざれば 樹かげに泣いて 珈琲もぎ」との句を残している。

シニア協力隊員として「桜の再生プロジェクト」を担う菅谷さんの案内で、リベルダージ地区の桜木を見て回る。


 
ブラジルの桜は、ポルトガルから入ってきた「ヒマラヤ桜」が起源とのこと。

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