「ロッキー」の衝撃と感動は、思い返してもビリビリと背筋を震わせるが、その続篇が公開された。
明日は今日より素晴らしい
シルベスター・スタローン
俳優を志した当初より、私の願いは自作自演をすることだった。
29歳の誕生日をハリウッドで迎えた私は、銀行に106ドルの預金しかなかった。
その日、妻のサーシャはバースデーケーキを贈ってくれて、ローソクの火を消すとき、何かお願いしなさいと言った。
私は、一日も早くこの惨めな生活から抜け出られますようにと、祈った。
しかし、状況は悪くなる一方だった。
将来に何の希望も見いだせない状況で、子供が生まれた。
現状を少しでも良くする道は、創造活動以外にないと信じるようになった。
私は、アイスクリームとケーキを持って、机の前に座った。
そこで突然ひらめきを感じた。
それまで、私の書いていたものには、人々に感動を呼び起こさせるものがなかった。
私、シルベスター・スタローンがスクリーンで見て、楽しんできたものはどんな作品だったろう。
ヒロイズムの物語や、人々の夢が現実となっていく物語、血も凍るサスペンスもの等に私は心惹かれていた。
余りにもたくさんのアイデアがあったため、私はそれぞれの考えをまとめることができなかった。
気晴らしに最後の小遣いをはたいて、モハメッド・アリ対チャップ・ウェブナーのヘビー級タイトルマッチを観に、クローズド・TVを放映している小屋に出かけた。
ウェブナーはそれまで大試合をやったこともなく、大したボクサーではなかった。
その試合も大勝負というものには程遠く、予想では彼は三回までもたないということだった。
ラウンドが進むにつれ、奇跡のドラマが私の前に展開され始めた。
ウェブナーが頑張ったのである。
アリが倒れ、会場が興奮の坩堝と化した。
最後のラウンドが始まったが、ウェブナーは出血さえしていなかった。
彼は偉大なアリと戦って15ラウンド持ちこたえた数少ないボクサーとなった。
このことはウェブナーの人生に大きな支えとなった事だろうと思う。
彼が34歳まで積み上げてきたトレーニングの結果がそこにあり、今後一生胸を張って生きていくことができるのだ。
私は人間の意志の素晴らしい勝利の瞬間を目撃し、また感激した。
その夜、ロッキー・バルボアが誕生した。
主人公はそれほど知性豊かな人物ではない。
しかしロッキーには豊かな感情があり、愛国心があり、またしたたかな根性を持っている。
彼を取り巻く環境は、彼にとって良いとは言い難いが、善良な性格の持ち主である。
私は彼をスニーカーを履いた剣闘士だと思っている。
ただ世渡りが上手くないのである。
私はこの物語に、自分自身のやりどころのない思いを入れた。
考えがまとまるにつれ、ものに憑かれたようになった。
私とサーシャは三日三晩夢中で働いた。
日が昇り、沈み、また昇った。
私が書き、サーシャがタイプした。
食事も立って済ませ、お互いにビンタしながら眠気を防いだ。
心の中から、何かが湧き上がってくるのを感じていた。
私のマネージャーが、台本を若手プロデューサーに持ち込み、彼はそれを、ウィンクラー・チャートフ・プロに持ち込んだ。
私はこの脚本を自身のために書き、自分の手で世に送り出したかった。
しかし、ウィンクラーとチャートフは、主役は名の通ったスターが必要だと強調した。
私はスターとは程遠い、無名の俳優でしかなかった。
スターを使えば、値段をあげると言われた。
実のところ、それは私にとって大金であり、それを断るなんて狂気の沙汰だった。
私は事務所を出、もう二度とチャンスはないと思った。
しかし心のどこかで「金は二の次だ」という声がした。
もし彼らのいうとおりにしたら、きっと一生悔やむことになると思った。
例え実現の可能性が百万分の一でも、自分の思い通りにするのがいいと思った。
もし芸能の世界で私が使命を与えられたとすれば、それは人々を楽しませる映画を創造することである。
いつも成功するとは限らないが、そうなるよう努力することが私のゴールなのだ。
絶望のどん底から這い上がってくる主人公たちを描いて、観客に生きる力を与えたい。
主人公が戦い、のたうちまわり、最後に望むものを手に入れると、観客は「俺にもできる」とか「あのような人間になつてみたい」とか考える。
“ROCKY”を発表して以来、数多くの人から手紙を貰った。
その大部分はロッキーの哲学が人生を変えたと言っている。
人々は努力次第で不可能が可能となることを知る。
「這い上がる」ということは、かつてアメリカ人のゴールだった。
もう一度、その問題を考え直す時が来た。
そして“ROCKY”のような映画が、人々の心にその考えを植えつける手助けとなることを祈る。
私は映画を観に来た人たちが、豊かな気持ちになって映画館から出て欲しいのだ。
人々の心を希望でいっぱいにしたい。
人々に「明日は今日より素晴らしい」と思わせたいのだ。
チャンスの国のシルベスター・スタローン
小藤田千栄子
「アメリカはチャンスの国さ。これが、この国のいいとこなんだ」
「ロッキー」パート1に出てきたセリフだが、日本でもかなりもてはやされたこの一言は、スタローン自身も大いに入っているらしく、パート2の導入部分でも再び使われている。
ロッキーの闘いは、おそらくアメリカ映画の歴史に “ロッキー伝説” として残るのではないかと思えるのだが、この伝説とスタローン自身のそれとが、見事に重なり合うところが、この国の、いかにもこの国らしいところである。
ロッキーのシナリオは、モハメッド・アリとチャック・ウェブナーのヘビー級タイトルマッチをテレビで見たあと、まさに天啓のようにひらめいて、三日間タイプを打ち続けて書いたことになっている。
多分、のちに手を入れたり、一部変更したりなど、そんな作業もしたと思うのだが、一応、三日間で書き上げたことになっているのが、いかにも伝説のスタートらしく、ぴたりと決まってカッコイイ。
最初、ユナイトは、脚本だけを買い、主演は名のあるスターを考えたそうだが、スタローンがねばりにねばり、ついに主演の座を獲得したことになっていて、これもまた伝説をいろどる。
いかにもそれらしいエピソードだが、忘れてならないのことが、スタローンが脚本料いくら、出演料いくらの売り渡しではなく、歩合システムをとったことである。
映画が大ヒットすれば、それだけ彼の収入も増えるというシステム。
成功のあとには必ず富がついてくる。
建国以来のアメリカの夢の実現である。
ロッキーの成功は、彼の映画にひとつのパターンをつくりあげた。
それは、コネもなく、お金もなく、語るほどの学歴もない若者が、自分の力だけを頼りに世の中に出ていく、ある種の出世物語である。
「フィスト」がそうだった。
これは、オハイオ州クリーブランドの長距離トラック運転手が、労働組合の雇われ勧誘員となり、ついには、全米200万人といわれる組合の長にのし上がっていくという物語であった。
次の「パラダイス・アレイ」は、戦後すぐのニューヨークで、3人の兄弟が力を合わせ、賭けレスリングでお金をもうけ、スラム街から出ていこうとする話である。
スタローン映画の主人公たちは、いずれも、ひとたびチャンスに出会ったら、それを自分のものにしていくために、モーレツな闘いを展開する。
それは、たとえチャンスの国といっても、そのチャンスを自分のものにしていくためには、このくらいは闘わなくてはダメなのですよ、と、スタローン自身が語っているようでもある。
そして待望の「ロッキー2」である。
前作のラストから始まる、うまい構成だが、いま2年半ぶりに見ると、作り過ぎが目立つとはいえ、やはり再び感動してしまう。
激闘で腫れあがり、よく見えなくなってしまった目を向けて “エイドリアン” と叫び、満員の客席のすみから人をかきわけ “ロッキー、ロッキー” と叫びながら、リングに近づく彼女。
フィラデルフィアの片隅で、なんとも頼りなげだった恋人たちが、お互いだけを求めて近づくさまは、ちょっとテレるけれど、やはり感動的である。
この感動をふたたびおさめて、「ロッキー2」の本編は始まる。
ロッキーが、またリングにあがるであろうことを予測している私たちは、いったい、いつ、スタローンがトレーニングを始めるのか、それを最初から心待ちしているようなところがある。
それはちょうど、かつての東映任侠映画で、いつ健さんが殴り込みにいくのかを最初から待っているようなものであり、あるいは、フーテンの寅さんが、いつ美女に出会い、恋してしまうのかを心待ちしているのと、とてもよく似ている。
ロッキーが、あの階段の上で、片手だけを使って腕立て伏せをするところは、いいシーンである。
試写場では、まずここで拍手が起こった。
みんな、このときを待っていたのである。
ボクシングの段取りも。スタローン演出が冴えわたる。
15ラウンドで、2人そろって、こちら側に倒れてくるスローモーションのシーンは、忘れがたいものになりそうである。
スタローンの登場は、脚本も書き、演出もし、自らの身体を使って、全力で闘ってみせる新しい映画人の出現であったが、そういつまでも肉体をかけて闘うわけにはいかないだろう。
この点をどうするのか、これが、今後の彼の大きな課題であることは言うまでもない。
ロッキー 大きなやんちゃ坊主
川本三郎
「ロッキー2」には前作に比べてさしたる新味があるわけではない。
ストーリーの展開にしたって、だいたいは見る前に予想したとおりである。
にもかかわらず、ラストのそれこそ血みどろ、汗みどろの試合を見ているうちに、いつのまにか椅子から身を乗り出してロッキーに声援を送っている自分に気がつく。
これはなぜだろう。
私はこの「ロッキー2」のよさは、主人公のロッキーのキャラクターのよさにあると思う。
ロッキーにはおよそ打算というものがない。現代人特有の冷笑癖もない。
悲しいときは悲しむ、泣きたいときに泣く、うれしいときにはヤッホーと叫ぶ。
実に単純で素朴で能天気な男である。
物事をひねって考えないと気がすまないインテリさんからみれば、それこそバカみたいな男てある。
そしてそこがロッキーの魅力なのである。
成金趣味もいいとこな、虎印のジャケット、高級腕時計、スポーツカー。ロッキーがそうしたものを買うのは何も得意になって自分の地位向上を見せびらかしたいからではない。
ただ、子どもが素晴らしい玩具を欲しいと思うように、西部のカウボーイが人一倍早く走る馬にあこがれるように、ロッキーは自分の “玩具” が欲しいだけなのだ。
その意味で、ロッキーは、私には伝統的なアメリカの「少年」というヒーロー像を思い起こさせる。
ハックルベリイ・フィンやトム・ソーヤが、あるいはミッキー・ルーニー扮するアンディ・ハーディが、ロッキーの遠い祖先なのではあるまいか。
ロッキーはまさにバカみたいに無邪気な少年なのである。
ロッキー夫妻が不動産屋と一緒に新しい家を見に行くシーンは、なんでもないシーンなのだが、二人の生活・育ちがさりげなく出ていて印象に残る。
「この郵便受けはいいな」と得意そうに言うロッキー。
「ご覧なさい、この広々とした台所を」という不動産屋の説明に目を輝かせるエイドリアン。
二人の子どもが産まれたシーン以上に、ここは二人の幸福感がよく出ている。
ロッキーが命がけで試合をやったのは、ただ “カネが欲しい” “いい家に住みたい” という現実的な夢のためなのである。
この映画は、そこのところを実に正直に描いている。
フランス文化の価値は「栄光」にあるが、アメリカ文化の価値観は「幸福」にある、とよくいわれる。
“幸福になりたい” という単純でまっとうな夢のために、ロッキーはリングにあがるのだ。
ロッキーにとってボクシングとは、スポーツでもなければ、男らしさの見せどころでもない。
それはあくまでも「仕事」である。
漁師が海に出ていくように、労働者が工場に出かけて行くように、ロッキーはリングに上がっていく。
「オレにはボクシングしかない」と気づいたとき、ロッキーははじめて「少年」から「大人」になる。
これは普通よくあるスポーツものとは逆である。
普通のスポーツものは、男は、男にしかわからない夢なるものを追って、女の手をふりきって、試合に出かけていくのに、ロッキーは仕事のために妻の暖かい見送りを受けてリングにあがるのだから。
ロッキーは男としてというよりは夫として、父親としてリングにあがるのである。
とはいえ、この夫・父親は決して分別くさい大人ではない。
あくまで無邪気でやんちゃで向こう気の強い、少年のキャラクターを残している。
ロッキーとアポロの試合は前作以上にすさまじく、まさに血まみれ、汗まみれの死闘なのだが、しかしこの二人の試合は不思議に凄惨な印象は与えない。
これは思うに、この二人がまるで夕食も忘れて泥んこ遊びに夢中になっている少年のように、無邪気で必死だからではあるまいか。
「ロッキー」そして「ロッキー2」が、子どもから大人まで親しまれている秘密は、このへんにありそうである。
蛇足だが、私はこの映画をニューヨークの下町の映画館で見た。
家族連れで超満員の場内は、エイドリアンが昏睡からさめて「Win」と言うあたりから拍手・歓声で騒然となり、ついにラストでは父親も子どもと一緒になって椅子から立ちあがり、スクリーンに向かって「ロッキー、ロッキー」の大声援を送り出した。
その興奮につられて私も気がついていたら、大声でわめいていた。