…1970年5月、日本人として初めてエベレスト登頂に成功した植村は、その勢いを借りて8月にはマッキンリーを単独登頂、世界初の五大陸最高峰登頂者となった。
単独登頂の爽快感は、やがて南極大陸の単独横断へと意識を向かわせる。その距離3,000kmを体感すべく、日本列島を徒歩52日間で縦断するなど、準備を進める植村。
そして、犬ぞりの操縦技術を学び、極地の気候に身体を順化させるため、彼はエスキモーとの共同生活を決意、ひとり、グリーンランド最北の村・シオラパルクをめざす…
一九七二年九月十一日、私の乗った全長五メートルほどの小さな焼玉船は、大西洋から北極海へ抜けるスミス海峡を、シオラパルクへ向って、ボンボンと頼りなげな音をたてて進んでいた。
グリーンランド内陸から押し出された氷河が鋭く落ちこんだフィヨルドの黒みがかった海には、真白い氷山が点々と浮んでいる。とにかく極寒の海だ。落ちたらたぶん一分と命はもたないだろう。
われわれの命はイミーナ老人の舵さばきひとつにかかっていた。老人は船尾にドッカと腰をおろし、足で器用に舵をとりながら、船腹にぶちあたりそうに近づいては遠ざかる氷の塊りを指さして、前歯の抜けた口をいっぱいにあけて驚いてみせる。
…村に着いたものの、泊まる場所のあては全くない。彼は船の荷上げを手伝うことで、村人との接触を試みる…
エスキモーたちのなかにとびこんでゆく手がかりのまったくないいま、これを見すごす手はない。荷あげを手伝うことで、なにかきっかけをつかむことができるかもし れないからだ。
私はせまいわたり板をのぼって浮き舟にとびのった。
彼等は中国人よりも日本人に似ているといわれている。なるほど身長こそ百六十センチと低いが、丸顔、黒い髪、黄色い肌など、日本人といわれても少しも不思議ではない。
しかし、こと荷あげとなると、日本人の中でもどちらかといえば小柄の私よりも苦手のようだ。わずか三十キロ ほどの荷を背中にのせられただけで、若者たちはわたし板の上をヨロヨロしている。
彼等には重い荷を背にかついで運ぶという習慣がまったくないのだった。極寒の地で狩猟生活をいとなむ彼等は、獲物を発見するための視覚、聴覚、嗅覚は発達させてい ても、重い荷を持ち運ぶ能力は、特に必要としないのだ。
一方山で荷あげには慣れている私だ。三十キロの荷など朝飯前である。私はエスキモーたちに二人がかりで荷を二つ背にのせてもらい、 波でゆれる幅三十センチばかりの板をスイスイとわたってみせた。
それを見て若者の競争心がかきたてられたらしい。一人が勇をふるって板をわたったまではよかったが、浜へついたとたん肩の石炭袋を投げ出し、スッテンドウとひっくりかえってしまった。私が大声をあげて笑うと、彼も頭をかいて笑っている。失敗して頭をかくところなど、日本人そっくりだ。
一回目の荷あげが終わり、浮き舟が本船のほうにもどってゆくと、エスキモーたちは私に好奇の目を向けはじめた。私はさっそく彼等に話しかけてみることにした。話すといってももちろんジェスチャーまじりだ。
しかし彼等はニコニコ笑うだけで、いっこうに反応がない。子供たちも子供たちで私が一歩近づくと一歩しりぞき、手をさし出すとさっとうしろにさがってしまう。 荷あげ作業を手伝ったくらいで彼等の好意を得られると考えたのは、すこし甘かったのだろうか。
あと数回の荷あげで、船はこのシオラパルクから出ていってしまう。そのわずか数時間の間に、私と生活をともにしてくれるエスキモーを探さなければならない。
そのときわたしは、二年前、ウロス族の部落にはいった時のことを思い出した。
ウロス族とは、南米のボリビアとペルーにまたがるチチカカ湖の浮島で生活しているインディ オのことである。この高度三千八百メートルの水上に住むウロス族は、湖の浮島に葦で粗末な小 屋をつくり、湖の魚をとって生活していた。
私には、自由に生きているインディオたちの姿が、素晴しいものに見えた。たとえ数日間でもいい、彼等の生活のなかにとびこんでみたい。そのためには観光客として彼等に対してはだめだ。
私は夕刻、白人観光客と別れ、ウロスの船頭をやとって単身部落にのりこむことにきめた。いざという場合は野宿をすることまで考え、湖畔の村でアルパカの毛布を買ってくることを忘れなかった。
太陽はすでに沈み、高度三千八百メートルのチチカカ湖は、薄氷がはるほど冷えこんでいた。ウロスのインディオは、私をうさん臭そうな冷たい目で迎えた。七、八メートルの間隔をおき、なにをしにきたといわんばかりのイヤな目である。
おまけに一歩二歩、歩くたびに浮島はズブズブと不気味な音をたてて沈む。ここにいるのはウロスだけだ。闇にまぎれて湖のなかに投げこまれたら、それで終わりだ。私は彼等に真剣に語りかけた。
「私はけっして怪しい者ではない。写真をとりにきたのでもない。あなたがたと友だちになってもらいたくて、こうしてひとりできたのだ」
それがどの程度彼等につうじたのか怪しいものだった。私の真剣な語りかけにもかかわらず、大人たちはいつのまにか家にかえってしまい、私のまわりにいるのは子供たちだけになってしまった。子供たちはいつの場合でも大人より好奇心が強いものだ。私はこの子供たちを利用することを思いついた。
私はまず葦の枯葉をあつめ、縄をなった。子供たちは、目をかがやかせて、私の手元をジッと見つめている。私をかこんでいた子供たちの輪はだんだんせまくなってきた。これは案外成功するかもしれない。
私は二メートルほどにないあげた縄を手に持って、縄飛びをはじめた。地面が浮島でフワフワしているので飛びづらい。しかし子供たちはもうすっかり夢中になっていた。それはそうだろう。子供にとっては、きれいな服を着てカメラをぶらさげ、金を投げあたえてくれるだけの存在だった外国人が、夕方部落のなかにひとりではいりこみ、見たこともない縄飛びをはじめたのだから無理もない。縄がひっかかって転んだりすると、笑い声さえおこるようになってきた。もうひと息だ。私は家に引っこんでしまった大人たちの反応をうかがいながら、こんどは子供たちに繩を持たせ、大きく振ることを教えて、そのなかに飛びこんでいった。
ひとりの子供が、私のまねをして繩のなかに飛びこんできた。もう私が異国人であることも忘れて夢中である。子供の歓声に誘われたのだろう、いつしか大人たちも姿をあらわし、この不思議な遊びに熱中している私たちをニコニコしながら見つめている。そこには最初私に向けらていた鋭い冷たい視線はもうなかった。
…のちに刊行される「北極圏一万二千キロ」「北極点グリーンランド単独行」の二冊とは、本書は趣を異にしている。本書は冒険のドキュメンタリーというより、エスキモーとの交流・試行錯誤の犬ぞり紀行が描かれ、稀代の冒険家の素顔を垣間見ることができる…
私がシオラパルクのエスキモーたちにとりまかれ、途方にくれていたときに思い出したのは、このウロス族との経験であった。ウロスにくらべれば、このエスキモーたちは、まだまだ人なつっこい。第一、ウロスの冷たい刺すような視線にくらべ、ここでは大人も子供も、好奇心をむき出しにしてニコニコ笑っているではないか。私はラジオ体操をはじめた。
「さあ元気よく、腕や脚をおもいっきりのばしましょう。イチ、ニイ、サン、イチ、ニイ、サ ン」
もちろん日本語などわかるはずはない。私は必死だった。はじめはキョトンとした表情で私を見ていたエスキモーたちも、そのうちだんだん反応を見せはじめた。体操をしながら横目で観察してみるとやはり子供たちである。私の背後でコッソリまねしはじめ、私が地面で横転をはじめるころには、もう私の正面にきて、「これでいいのか」と教えをせがむようにさえなってきた。
こんどは足を固定させ、お互いに腕をひっぱりあう遊びを教える。ひび割れて汚れてはいるが、あたたかい子供たちの手の感触が私の手に伝わってきたとき、彼等は私を受けいれてくれるにち がいないと確信した。
大人たちの輪のなかから、最初に声をかけてきたのは、隣り部落のカシンガだった。兄貴の家に案内してやるというのだ。もっともこれは、部落のなで生活するようになってからわかったことで、このときは手招きされてついていっただけのことだ。
…村人に受け入れられた植村を待っていたのは、「生肉の試練」だった…
「ジャパニ、肉を食べないか?」
彼はポケットからとり出したナイフを小さな砥石でとぎ、天井からぶらさがっている黒ずんだ肉を切りとって口にほうりこんだ。エスキモーは大人から子供まで、じつに器用にナイフを使う。日本人のハシ代りといってもいいだろう。
カシンガが持たしてくれたナイフを手にして、私はためらっていた。生肉であることはまだがまんできるとしても、なんの肉なのかわからないのが薄気味悪い。アザラシの肉なのか、それともセイウチか、いやひ ょっとすると犬の肉かもしれない。
目の前にギラギラと汚れた脂のしたたる肉塊を見ていると、胸がつかえ、たとえ餓死寸前でも食欲はおこりそうにない。私が躊躇している間にも、カシンが「ママット」(うまい、うまい)といいながら、ニチャニチャと音をたてて食べている。
「食べろ食べろ」というカシンガのすすめに、私は進退きわまってしまった。考えてみれば、彼も私を興味半分にここまで案内してきたのではないだろう。海岸で困っていた私に寄せてくれた好意からなのだ。これを受けられないようでは、このシオラバルクで生活する資格はない。私はどうしてもこの肉を食べなければならない。私は腹をきめた。
できるだけ血で汚れていない部分をえらび、ナイフをいれた。切りとった肉をつかんだ感触は、手のひらのなかでヌルヌルと動くウナギ、とでもいったらいいだろうか。
エスキモーたちは皆ニコニコと私を見守っている。これを吐き出しでもしたら、彼等はガッカリするだろう。いやそれどころかここでの生活を拒否してくるかもしれない。これほど真剣に食物にむかったのは、生れてはじめてだ。
私は恐る恐る肉片を口元へ運び、唇に肉片が触れないように前歯でおさえてからナイフで小さく切りこみをいれた。生臭さがプーンと鼻をつく。
ところが生肉が舌に触れただけで、私の胃はたちまち絶対拒否の反応をおこした。肉片がまだ口のなかにあるというのに、胃は痙攣をおこし、胃液がドッと逆流してきたのだ。
しかしここが勝負どころと、私はそれをグッと飲みこんで押えた。エスキモーたちが私の口に期待しているのは、吐きだされる肉片ではなく、「ママット」という賞讃の言葉なのだ。私はいかにもうまいという顔で笑って見せたが、はたしてどんな表情になっていたことか。
肉片は、生きたどじょうを含んだ感じで生臭く、とてもかんで味わう余裕などはない。私は思いきって丸ごと飲みこんだ。しかしその瞬間、肉片は胃からドーンと喉元まではねかえってきた。また飲みこむ、またはねかえってくる…私は何回かの往復ののち、やっとのことで肉片を胃のなかへ押えこんだ。
彼等は、「ママット?」(うまいだろう?)と聞く。私が歯をくいしばり、胃を押えながらウンウンと返事をすると、彼等は「もっと食べろ、もっと食べろ」とさらに肉片を切りとって差し出す。こんどはまえのとちがって、黒い脂のタップリついたやつだ。
私は泣きたくなった。実際、目には涙がにじんできた。そのときうろたえている私の目に、壁にかけてあるアザラシの靴がとびこんできた。私はそれを指さしてエスキモーたちの注意をそらし、素早く肉を口から吐き出してポケットにかくして急場をしのいだ。
私にはつらかった”生肉テスト”に、エスキモーたちは合格点を与えてくれたらしい。彼等はみな満足そうな笑顔をうかべ、私との間にはなんの障害もなくなったように思われた。そこで私はジェスチャーをまじえ、これから一年間、この部落でいっしょに生活したいこと、犬橇の扱い方を教えてほしいこと、誰かの家庭に入れてもらいたいことなどを頼んだ。私は汗びっしょりになっていた。いまから考えると、言葉の不自由な私の演説を、彼等がどの程度理解してくれたかわからない。しかし私の話が終わると、ひとりの老人がこれまたジェスチャーまじりで私に声をかけてきた。
「わしはひとり住まいだ。よかったらわしのところで暮らさないか」
私は思わずとびあがった。老人の手を取って何度も何度も「グエナソア」(ありがとう)を繰り返した。老人の名前はイガーバルといった。名前を忘れてはたいへんだ。私は彼を「イガグリ爺さん」と呼ぶことにし、その名前を忘れないようにしっかりと頭の中にたたきこんだ。
…植村が食べたのは、鯨だったようだ。次第にエスキモーの生活に順応していく植村、後半ではこんな感想を述べるようになる…
腹を縫い合わせたアザラシが一頭ころがっている。皮下脂肪だけを残したアザラシのなかには、黒い羽毛がついたままのアパリアスという小鳥が四百羽ほどつめこまれているのだ。奥さんはかたく凍ったアザラシの腹を裂き、アパリアスをとり出してわたしてくれた。凍ったアパリアスがだんだんにとけていくにしたがって、ブルーチーズのような強烈な臭いが部屋中にひろがってゆく。糞の臭いに似ていないこともない。私はゴクリとのどをならした。これがじつにうまいのである。
私はアパリアスを両手でつつみ、冷たいのをガマンして臓物がとけてくるのを待つ。手でおさえてやわらかくなったところで、アパリアスの肛門に口をあて、手でしぼり出すようにして中身を吸うのだ。ちょうど冷たいヨーグルトのような味の赤黒い汁が口のなかいっぱいにひろがり、なんともいえないうまさだ。中身が終わると羽毛をむしり、皮や黒く変色している臓物、肉と食べてゆき、最後に頭を歯でくだいて脳ミソを吸う。口のまわりは黒い血でベトベトである。アザラシの皮下脂肪の浸透したアパリアスほど臭いが強く、うまい。私が日本に帰って一番食べたいと思ったのは、鯨の皮でもアザラシの肝臓でもない、このキビアであった。今でも月に一度くら いはこのキビアの夢を見る。
…エスキモーの暮らしぶり…
私は疲れていた。シオラパルクの第一日目ということで、かなり緊張もしていたのだろう。私は早々にベッドにもぐりこむことにした。
外に出て小便をすませてくると、イガーパルも寝る用意をしていた。しかし突然イガーパルが入口近くに置いてあるバケツにむかって小便をはじめたのには驚いた。
バケツは反響して、ジャバジャバと、すさまじい音をたてている。さっき見たバケツは、エスキモーの便器だったのだ。
はじめて部屋にはいったとき、プーンと鼻をついた糞尿の臭いを、私は生肉のせいだと思っていたが、発生源はこのバケツだったのだ。
村人たちと話しているうちに、困ったことになった。便意を催してきたのである。ここがシオラパルクなら、堂々と人前でバケツのうえにしゃがみこむことができるのだが、初対面の村人たちの前ではやはり抵抗がある。
私は気づかれないようにこっそりぬけ出し、人目につかない家の裏にしゃがみこんで、ズボンをおろした。もちろんマイナス三十度という寒さだから、ノンビリと尻を出し、星空をながめながら野糞を楽しむなどという風情はない。
ところが私の糞を目がけて、犬がどっとあつまってきたのには驚いた。こんなことはシオラパルクではなかった ことだ。
カナックには野良犬も多いし、犬をつないでおかない者もいる。そんな犬たちが、私の糞を食べようと殺到してきたのであった。
犬たちは一メートルほど離れて私をとりかこみ、興奮状態でケンカをはじめている。一度でも橇をひいたことのある成犬は、人間を非常に恐れている。ムチでたたかれ、棒でなぐられるのがその生活だから、成犬は大好物の糞を目の前にしても、人間にはなかなか近づくことができないのだ。そのスキに一匹の子犬が糞をくわえこみ、一目散に逃げはじめた。成犬はいっせいにそのあとを追っていった。
私がカナックの人たちの前で、堂々と大便をすることができるようになったのは、半月もたってからのことである。その頃になると、カナックの娘たちも話しながら尻をまくり、小便をするようになって、私との間にはなんのこだわりもなくなっていた。
娘たちのなかには、どこの都会でも見られるようなパンタロンやジーパンをはいている者もいる。みな一様に髪を肩の下までのばしており、顔つきもまったく日本人と変わらない。そんな彼女たちが私の目の前で尻を丸出しにし、音をたてて小便するのだから、奇妙な光景である。
これまで 四十か国ばかりの国々を歩きまわってきたが、これほど風俗習慣の違いを感じたことはなかった。
私もはじめは彼等の排泄習慣になかなかなじめなかったが、「生活をともにする」という以上、食生活を同じにするだけでなく、同じ排泄行為をとることができるという条件もつけ加えなければならないと思っている。
私の家は、いまや部落でもっとも人気のある集会所になってしまった。これはこれで楽しいことではあったのだが、ひとつ困った問題が起きてきた。私ひとりの時間がまったく持てなくなってしまったことだ。さしあたっては、洗濯と入浴の時間がまったくないことである。
シオラパルクには真水がない。水はすべて浜にうちあげられた氷を切り崩し、とかしてつくらなければならないから、えらく時間がかかる。片手間にちょっと洗濯というわけにはいかないのだ。
娘たちは「私が洗濯してあげる」と言ってくれるのだが、あとがこわいから甘えるわけにはいかない。彼女たちの誘惑を何度もかろうじて排除してきたのに、ここで弱味をみせてはどうなるか、自信がもてなかった。
しかたがないので、ザックのなかにつっこんであった着古しをとっかえひっかえ身につけることになる。こうなると悪循環で、下着はもう垢まみれだ。いくら重ね着してもあたたまらず、身体はもうヌルヌルである。
洗顔にしてもそうだ。壁のすぐ手のとどくところには石鹸、髭そり、歯ぶらしなどがぶらさがっているのだが 、水がないのでずっとほこりをかぶったままだ。
水をつくるのは女の仕事である。だからエエスキモーの独り者はみな垢まみれだ。
ついにノミかシラヌでもわいてきたのか、シュラフに寝ていても身体がむずがゆく、満足に寝られなくなってしまった。
せまい部屋の中は、まるで幼稚園の学芸会上だ。彼らはこのようにして、一週間とたたない年末までに、ボーナスをすっかり使いはたしてしまった。
一月にはいると海氷の厚さは一メートル以上になり、アザラシ狩りはよほど氷のうすい外洋まで出なければ不可能になる。一月分の酒を買うため、セイウチの彫物つくりに精を出さなければならないのは目に見えているのに、彼等はどうしてボーナスを節約してとっておかないのだろう。
しかし「一、二月にまったく外に出なくてもすごせるだけのボーナスが出ているのに」と考えるのはわれわれの考えなのだろう。
エスキモーは犬橇を駆ってアザラシを追う生活こそが誇りなのだ。寒さを恐れ、ムチひとつふるえない外国人は軽蔑の対象にしかならない。
家族全員が獲物を求めて犬橇旅行に出たとき、子が「寒いよう」と泣き出したことがあった。それでも父親は「おまえはカットナ(外国人)なのかといって放りっぱなしにしていた。つまり外国人は、金は持っていても、弱く、なにもできないダメな人間という存在なのだ。だから彼等には金は財産でもなんでもなく、一時の欲望を満たしてくれる大人のおもちゃぐらいにしか考えていない。
金があれば好きなように使い、なくなれば本来の自分たちの生舌にもどる。彼らにとって金とはただそれだけのものなのである。
若者たちの話題はまず八割がセックスである。「おまえは誰それとどこでやっていたろう」などというたわいもないことを、キャッキャいってしゃべり合っている。
子供たちにしてもそうだ。親たちは性の営みを別にかくそうともしないから、子供はよく私を呼びにきたものだ。「ナオミ、ナオミ、いま誰と誰とがやっているから見にいこう」
私は、エスキモーほど自由な生活をおくっている人たちをこれまで見たことがない。ねむたくなればベッドにはいり、目がさめれば起き出す。食料がなくなれば狩りに出る。それが間にあわないときには、となりの家の生肉を食べに出かける。
エスキモーにおけるセックスも、これとまったく同じであった。部落のあるエスキモーの家を訪問したときのことだ。ひょいと家のなかをのぞきこむと、夫婦がひとつベッドにはいっていたので、あわてて飛び出したが、次の日いってみると、こんどはちがう男がベッドのなかにいる。
文献では妻貸しの風習があったと伝えられているが、エスキモーの間では、既婚、未婚をとわず、セックスはかなり開放的であるように見える。そのせいか、ここには私生児が非常に多い。アンナ (二十一歳)も、ナバラナ (三十五歳)もみな申し合わせたように私生児をかかえているが、それでもまだ子供は親に育てさせ、自分たちは若者を追いまわしているのだから、わからない。
私はそのアンナから、このシオラパルクにはいったとき”誘い”をかけられたことがある。彼女は四本の指である形をつくり、自分を指さして「ママット、ママット」といったのだ。 「ママット」というのは「おいしい」という意味である。
別に食事をしているときでもなかったので、私はチンプンカンプンだったが、あとからその形は、女性の”あの形”のエスキモー型表現であることがわかった。アンナはそのとき「私の持ちものは具合がよろしい」という意味のことを私にいったのだった。
ひとりで住むようになった私は、彼女たちの格好の攻撃目標になったようだ。彼女たちが、セックスを目的として家にくるとぐわかった。まず子供も若者も引きあげた夜遅く、こっそりとはいってくるのだ。さもなければ男一人、女二人の組み合せではいってくる。その場合には男女のペアはすでにできあがっていて、「残った娘はナオミが引き受ける」というしかけになっている。
しかし私はここで男女関係のトラブルをおこしたくなかった。こんなことで、これから一年間の生活を棒にふってはたまらない。そんなときには私はいつも自分の股間を指さし、
「私はドクターからオヒョーを使ってはいけないと言われている」
と断わることにしていた。彼女たちもアッサリしたものである。
「コーヒー飲まない?」
「医者にとめられているんだ」
「そう、残念ね」
まあ、こんな程度の会話と考えてもらうと、ニュアンスとして一番近いように思う。私は三十二歳、男ざかりの年齢だ。身体が女性を要求することだってある。目の前にエスキモーたちの自由な性の交歓を見せつけられ、さそわれてことわるのはつらい。それはエベレストの頂上に登ることよりも、またアマゾンのイカダ下りよりも、ちがった意味で苦しいことであった。
赤く灼けたお盆のような太陽は、昇るでもなく沈むでもなく、ただ南のほうへ横に転がっていくだけだ。
「ナオミ、今年最後の太陽だ。もう明日から二月末までは出てこないぞ」
と言うイヌーイトゥ父さんの吐く息は、煙草の煙のようだ。
10月20日を境にして、太陽はまったく視界から消えてしまった。今では高度わずか900メートルに満たない裏山の氷帽に、赤い陽を残しているだけである。
…犬ぞりを操るため、ムチの練習に奮闘する植村だが…
十月にはいってから私は犬橇用ムチの練習に本腰をいれるようになった。このムチ一本が犬橇のすべてを左右するのだが、たかがムチ一本である。私は一ヵ月も練習すれば十分だろうとタカ をくくって、これまではマラソンを中心にしたトレーニングしかしていなかった。ところがはじめてムチを手にして、それがとんでもない甘い考えであることをいやというほど思い知らされた のである。
ヒゲアザラシの皮をラセン状に切りのばしてつくったムチは、全長ハメートル、幅は手元で一 センチ、先にゆくほど細くなっていて、先端の幅は一ミリほどである。先端には、ふったとき音が出るように、一メートルほどの釣糸用テグスが結んである。それを一メートルばかりの木の棒 にしばりつけた簡単なものなのだが、いざふってみると、これが大変な難物なのだ。こちらのいうことをまったく聞いてくれない。
波で打ちあげられた氷の塊りを犬に見たて、練習をはじめたのだが、目標物にあてるなどとんでもない話だった。右手に柄を持ち、大きくうしろにまわったムチを前方にふり出すのだが、ムチはせいぜい半分ほど前にのびるだけで突然方向をかえ、私のほうへうなりをあげてとんでくる。猛烈に痛い。目から火花が散るという形容があるが、これはたとえ話ではなく、本当に火花が散るのだ。もう一度腕を大きくのばし慎重にふり出すと、こんどは先端が足にクルクルとまきつい てしまった。たかがムチ、と思ったのは、とんでもない思いあがりだったのだ。
ムチの腕を拝見しようと私をとりかこんでいた子供たちは大喜びで、私の顔面をムチが襲うた びに「ナオミ、エパウタ、アヨッポ」(ナオミはムチが下手クソだなあ)と、笑いころげる。そのうちターベがでてきて、「ちょっとムチを貸してごらんよ」と私の手からムチをとりあげると、足を大きくひらきふってみせた。ムチ先は大きな弧を描いたかと思うと、パチンと小気味のいい音をたてる。なるほどみごとなものだ。こんな小さな子供にもできるのだ、私にできないことはあるまいと、ターベに二、三回ふらせ、腕の動きをよく観察してからふたたびアタックしてみたが、結果は同じだった。
こんどはイヌートソアが出てきてムチをふってみせてくれる。さすがに私の目にもターベよりグンとうまいことがわかる。ムチは歪みもせず、琴線のようにピンとのびて目標物をうち、腕を八の字型にまわすだけで、前後左右にとびかう。ピューピューと自由自在にあやつられるムチは、一匹の生きもののようで、じつにあざやかなものだ。
犬のムチさばきは、犬橇をあやつる重要な技術のひとつである。いやひとつというよりすべてといってもいいほどである。南極を犬橇で横断するには、欠くことのできない技術だ。私は、ムチの練習に本腰をいれることにきめた。これいらい、私の顔にしっぺ返しのミミズばれはたえたことがなく、鏡をのぞきながら軟膏を塗るのが日課のひとつとなってしまった。
…やがて、南に75kmのカナック村へ、初の犬ぞり旅行を計画する…
結局私は一睡もせず出発の朝をむかえた。朝九時とはいってもまだ真暗で、時計だけが知らせる朝の九時である。まず橇の後部に炊事用具、ナタ、ノコギリなどをつめた木箱をおく。ナタ、 ノコギリは万が一、橇がこわれたときのためだ。ナベ、石油のポリタンク、食料として砂糖一キ ロ、カンパン二十枚、茶、それに三十キロほどのセイウチの凍肉二個。海水にはまったときのことも考えてセーター、手袋、靴下、羽毛服などを、す早く着替えできるところにつみこむ。セイウチの凍肉を橇のまえにおき、トナカイの毛皮でおおってライフルといっしょに固定すると出発準備は完了した。 荷の重さは全部で二百キロ近くになるだろうか。
私はトナカイの上着に白熊のズボン、アザラシの長靴といういでたちで、五頭の犬を扇状につないだ犬橇にまたがり、大声で「ヤー」と出発の合図を犬たちに送った。
ところが犬たちはいっこうに走り出そうとしない。いつもなら、イヌートソアやカーリの号令ひとつで、右にも左にも忠実に動く犬たちが、いまは私の「ヤー、ヤー」という懸命な合図にもそしらぬ顔である。主人がかわったので抵抗しているのだろうか、それとも私をナメてるのだろうか。
レピッカとイミーナが、窓からのぞいている。子供たちもお手なみ拝見とばかり勢ぞろいしているから、ここでとりみだしては面目丸つぶれだ。
私は腹の虫をぐっと押えつけ、表面はできるだけにこやかに、そして余裕ありげにもう一度「ヤーヤー」と合図をおくった。それでもやっぱり犬たちには馬の耳に念仏でそ知らぬ顔だ。
私はムチを使うことにした。ところが日頃の腕が本番で急にうまくなるはずがない。例によってムチは犬に命中せず、私の顔をめがけて音をたててとんでくる。パチン。私の目から火花がとぶ。猛烈に痛い。
子供たちの間からワッと笑い声があがった。レピッカやイミーナが笑っているのが窓ごしに見える。私はうろたえてしまった。とりあえず橇を押して動かそうとしても、二百キロ近い荷をつんでいる橇はビクともしない。
私はムチをあきらめ、今度はムチの握りの部分で、犬の尻を一頭一頭たたきはじめた。ところがそれでも犬はキャンキャンと悲鳴をあげるだけで、前に進もうとはしない。
それどころか橇の周りをバラバラにかけまわるから曳綱がからまり、処置なしである。一体こんなことで七十五キ口もはなれたカナックへたどりつくことができるのだろうか。それも真暗闇の海氷のうえをただひとりで……。
しかしいまさら中止することはできない。私は泣きたくなってきた。
イミーナの孫娘のリッキーナは、そんな私を見て可哀想になったのだろう。そばにかけ寄ってくると、一頭一頭にムチをあてはじめた。
あっという間に出発準備はととのう。そしてリッキーナが大の前を先導しながら一声、「ヤー」と叫ぶと五頭の犬はいっせいに走り出した。
私はあわてて橇に飛び乗った。エスキモーの「ヤー」と、私の「ヤー」とはどうちがうのだろう。でもまあいい、とにかく出発できたのだから。
橇は青々とした海氷のうえをバリバリと音をたてて走っていた。いつもはこたえる寒風も、いまは頰に心地よい。
ところが最高の気分で走っていられたのもわずかの間であった。シオラパルクから十キロほどはなれ、前にアザラシ狩りにでた氷山のあたりまできたとき、突然犬たちは大きく円を描き、もときた道を一目散にかけもどりはじめたのだ。
リッキーナの助けで、かろうじて出発できたくらいだから、犬に命令して方向転換させることなど思いもよらない。はじめは、「コラ反対だ、反対だ」とか、わけのわからないことを叫びながらムチをふりまわして騒いでいた私も、しまいにはすっかりあきらめ、犬橇の上にすわりこんで、だんだん近くなるシオラパルクの部落をボンヤリとながめているだけであった。
出発してから数十分後、カナックへ向っているはずの私を見つけて、部落中は腹をかかえて大笑いだった。
…そんな植村だったが、徐々に犬ぞり操作の腕をあげ、シオラパルク~ウバナビック往復3,000kmの旅に挑む…
2/4
いよいよ出発の日がやってきた。
橇は重量八十キロ、滑走面には厚さ二、三ミリの鉄板がはりつけてあり頑丈そのものだ。長さ三・五メートル、幅一・二メートル、これなら氷や岩場にぶちあてても、氷のないガラ場の山越えにも十分耐える。橇につんだ荷物のリストは次のとおり。
セイウチの肉塊百五十キロ。カンパン、砂糖、茶、マーガリンなど計十日分。石油タンク二本、 トーウット(鉄棒)、ウヤー(木の棒)、鍋、ナタ、包丁、ノコギリ、トナカイの敷皮、犬の肩バンド、 細引、ヤスリ、サンドペーパー、トランク、16ミリ撮影機、35ミリカメラ二台、フィルム、寝袋、テント、トナカイの毛皮服、白熊皮ズボン、手袋(アザラシ、トナカイ)計三組、アザラシ靴、靴下、そしてライフル銃。
この計三百キロの荷を十頭の犬にひかせ、長旅を走りぬくのだ。食料は途中で補給しながらいく。これまでの狩りの訓練が役立つはずだ。
3/13
寒暖計を見るとマイナス十六度。計りまちがいではないかと思うくらい気温が高い。テントから出ると無気味なほどあたたかく、海氷上にテントをはっているのが恐ろしくなった。犬をたたき起してすぐ出発する。
ヌッソア半島の手前の島々にあと四、五百メートルと近づいたころ、雪が急にやわらかくなった。犬は一刻も早く陸にあがろうと夢中になって走っている。そのとき突然先頭を走っていたコンノットが、ガクンと雪のなかにめりこんでしまった。
危ない。
私は背筋がスーッと寒くなるのを感じた。海氷上の犬橇旅行ではもっとも危険な海水に落ちこんでしまったのだ。
異常な高温に、出発したときから気をつけてはいたのだが、まさかこんなところに海が口をあけていたとは。表面が雪におおわれていたので気がつかなかったのだ。
雪まじりの海水にめりこんだ橇は、方向をかえることもできない。橇からおりると長靴はひざ近くまでもぐり、海水がゴボゴボとわきあがってくる。
幸い十五メートル先に堅い雪が見える。方向をかえることができないから、いまはこのまままっすぐ橇を進めるしか方法はない。私は血が逆流する思いで夢中で犬を追いたてた。
犬は腹まで海水まじりの雪に埋まってもがき、橇は徐々に雪の中にめりこんでいく。しまったと思ってももう遅い。橇は水たまりの中ほどまで来ているが、犬たちは首をもたげてもがくばかり。橇のうえの荷にも水がつきはじめた。私は立ちあがって犬をどなり散らし、地団駄を踏むだけである。
橇は堅い雪の地点まであと四、五メートルに迫っていた。しかし私はすでに身体が濡れてもしかたがないと覚悟していた。
トランクの中にある着替え、コンロ、石油、マッチ、テントなどを向こうの堅雪の上にほうり投げ、自分は泳いで渡ろうと決意したのだ。だが異常にあたたかいとはいえ、マイナス十六度、はたして身体がもつかどうか。それでもこのままここで沈むのを待つよりはましだろう。
ところが私が石油コンロをとり出し、テントを結びつけているひもをほどきはじめたとき、先頭のコンノットがやっと堅雪にたどりついた。続いて二頭、三頭と犬たちは堅雪のうえにはいあがる。
犬たちもホッとしたのだろう。雪のうえにあがると橇をひこうとはせず、グッタリしたままだ。しかしこのままでは橇は沈んでしまう。ノンビリとはしていられない。私は鉄棒を犬たちに投げつけ、懸命に追いたてた。橇の先端が堅雪にふれたとき、私はこれで助かったと思った。
私はイミーナ老人から、南部は雪が多く、海があらわれているから注意しろと忠告を受けてたし、またゴットソアのエスキモーたちからもそういわれていた。
しかしサビシビックからゴットソアまで、十一日間の厳しい旅行をやりとげたという自信がカルサンヌまでの百キロを甘く考えさせていたのだろう。
私は反省した。北では白熊、乱氷、山の危険、南には海水への落下の危険、それぞれその地域々々に特有の危険はあるものだ。いままで言葉できかされていた危険を、今日ばかりは身にしみて感じたのだった。
4/13
私がアザラシ狩りに悪戦苦闘している間に、橇のうえではたいへんな事件が起こっていたのである。
橇までトボトボたどりついて、その光景を目にしたとき、私は思わず悲鳴をあげてしまった。橇のうえにつんでおいたサビシビックまでの五、六日分の食料が、全部犬に食われてしまっていたのである。オヒョウ、サメ肉、コーヒー、紅茶のパック、砂糖、ビスケット、マーガリン、みなあとかたもない。
私はあいた口がふさがらなかった。サビシビックまでの行程のちょうど半分の地点、陸地も見えないバッフィン湾の沖合である。
しかしここで途方にくれていてもしかたがない。ここを無事に切り抜けるためにはどうしたらいいだろう。
私はこのままサビシビックへ向って前進すること にきめた。ゴットソアまでもどったほうがいくぶん近かったが、犬はいま食料を十分とったから、食料なしでも三、四日はもつだろうこと、十四頭の犬がいるから、いよいよとなればそれを食料にできること、また明日はアザラシが獲れるかもしれないこと、などを考えて決断したのである。私はムチをふった。
4/19
いま日記帳をひっくりかえしてみてもなんの記入もない。ただ地図の裏に、この日の日づけでこんなことが書き散らしてある。
地図とにらみあい、犬走らず、ノロノロ
一頭の犬クレバスに落ち、海水につかる
食料なしは今日で五日目
犬の肉を食べようか
橇を半分海水に落とす
三日前に逃したアザラシが目の前にチラチラ浮ぶ
ナヌー(白熊)狩りの夢を見る
朝十時半出発、午後十一時テントはる
この日、自分はとりかえしのつかないことをしてしまったのではないかと考えながら、必死で歩いた。もうかなりサビシビックに近づいているはずなのだが、それらしい影はまったく見えない。八十六万分の一の地図では、わずかにあらわれた地形で判断するのはなかなか難しい。おまけにこの地図はグリーンランド内陸地図ではなく、沿岸航路のための海上地図なのだ。ひとり旅に、こんな程度の地図しか用意していなかったのはまちがいだった。しかし今さらそんなことをいってもはじまらない。とにかく行動しなければならない。
今日こそは、犬を殺すことを真剣に考えた。明日の行動を考えれば、今夜のうちに、三、四頭殺して犬たちに与えなければ、また明日一日を棒にふってしまう。今夜それを実行することが、いまの段階でとれる一番安全な方法のように思われた。
しかし結局私にはできなかった。シオラパルクでの生活ですっかりエスキモーのなかにとけこむことができたと思っていたのだが、犬についての考え方は、まったく日本人のそれを抜け出していないことが良くわかった。
4/20
朝、地図と首っぴきで現在位置を推測する。どうやらサビシピックまで三、四十キロの地点らしい。
私が日本列島徒歩縦断を試みたときは、一日平均55キロを踏破していた。犬がダメでも、三十キロ程度ならこの脚で十分いける。私は、やっと死から逃れたと思った。
4/30
「ナオミ、チキカイ」(ナオミ、よく帰ってきた)
イヌートソアは人垣をかきわけ、私にとびつくと、しっかりと抱きしめ、何度も何度も背中をたたく。ナトックも、
「ナオミ、ナオミ」
と呼ぶだけで、私に抱きついたまま次の言葉がでてこない。目に涙をあふれさせ、しわくちゃの顔をグイグイ私に押しつけてくる。私は頬にナトックのあたたかい涙を感じながら、これで長いつらい犬橇旅行は本当に終わったのだと思った。
私がシオラバルクのわが家で、思う存分手足をのばして寝ることができたのは、二月四日、出発してから丸三ヶ月ぶりのことであった。
…このシオラパルクでの経験を糧に、植村は1975年12月、北極圏1万2000キロ犬ぞりの旅に出発、1年半かけて成功させ、さらに1978年4月に北極点到達、8月にはグリーンランド縦断も単独で成し遂げた。
こうして南極大陸横断の夢をふくらませ続けた植村は、1982年1月、南極半島のアルゼンチン軍基地でいよいよ最終準備にとりかかる。が、その矢先の4月、フォークランド紛争が勃発。10年以上かけて紡いできた夢が、戦争という外的な事情で頓挫してしまう。
そして84年2月12日ちょうど43歳の誕生日、思いも新たに挑んだマッキンリーの単独登頂に成功するが、その翌日、下山途中に消息を絶つことになる。2026年現在、遺体は不明のまま、山中に眠っている…

