…エスキモーとの共同生活で培った技術>>>を活かし、1年半をかけて北極圏の犬ぞり単独行に挑んだ、不世出の冒険家の記録…
1974/12/20
最終準備で忙しいのだが、欲しいものがなかなか手に入らないのが憂鬱のタネである。だいいち犬の餌になるアザラシやタラがここにはないのだ。
今日はクリスマスの最後の日で、カーリに誘われて部落の真ん中にある教会へ行ってきた。神父もエスキモーで、村人たちはその人の指揮で一心に讃美歌を歌っていた。奇妙なことに、日ごろは無信心の私が、キリストの像を見ているうちにいつのまにか心から祈っていた。
私の旅がこれからはじまる。グリーンランドを北上し、カナダ領北極圏を横断し、アラスカに 入ってベーリング海峡にいたる長い長い旅。はたして無事に犬橇で走り抜けることができるだろうか。冷静に前途を思いみれば、一万二千キロの長旅を無事に切り抜けられるかどうか、はなはだ心もとないのだ。
正直にいえば、グリーンランドに入ってから二週間弱、マイナス三十度の気温は、私には耐えがたいほど寒く感じられる。オヒョウ釣りをしていて、アザラシの手袋をはめ ていたにもかかわらず私の手は寒さのために感覚を失った。
まだ自分の体が寒さに十分に慣れていないのだ。凍死の不安が心につきまとって離れない。
ローソクの明りでぼうっと照らし出されたキリスト像に向って、自分の安全を見守ってくれるよう懸命に祈った。キリストであれホトケ様であれ、神に変りはないだろう、何者でもいい、私の旅を無事に導いてくれるものに対して、私はすがりつきたいような気持だった。
1974/12/29
出発の日、午前九時でマイナス三十度、晴れ、満天の星だ。
セーターとウインドヤッケを着、さらにエベレスト登頂のときに使った羽毛服を重ねた。下は毛の下ばきの上に白熊のズボン、白熊の毛皮でつくったカミック(靴) をはいた。頭には羊の毛の帽子。
十二頭の犬を一頭ずつ扇状につなぎ、それを橇の前に結びつけた。犬を扇状にして走らせるのは、グリーンラ ンド・エスキモーのやり方で、私はこれを二年前チューレ地域のシオラパルク部落で学んだ。カナダ・エスキモーには、二頭ずつ一列につなぐ別の隊列の組み方がある らしい。
犬橇はむだがなく単純な形で、しかも合理的で頑丈だ。ギャップの多い氷上や雪上を走るため、また重量をできるかぎり小さくするために、釘その他の金属は最小限しか使っていない。この橋の上に、約三百キログラムの荷物を積んだ。
テント(四重張り)、シート、シュラフ、ピッケル、ザイル(五十メートル)、ラジウス(一個)、鍋(一個)、灯油(二十リットル、ラジウス用)、ムチ、犬の胴バンド予備、カメラ、8ミリカメラ、替え衣類、修理具、釣具、トウ(ノミのついた棒、氷に穴をあけるもの)、狩猟用の網(アザラシ獲り用)、銛、薬品、それに食糧。
食糧は、自分用の紅茶、コーヒー、砂糖、ビスケット。私と大兼用のオヒョウおよびサメあわせて五十キロ。
…旅の苦闘と成長…
テントを張ったからといって、すぐ中へ入って休めるわけではない。まず犬の曳綱をほどいて橇から外し、岩があれば岩に、なければ氷に穴をあけて結びつける。
凍肉を鉈で割って犬に与えおわってから、橇から敷皮、石油コンロ、シュラフなどをおろしてテントに運びこむ。溶かして飲料にする雪と氷もテントの隅に入れる。橇の荷の残りを全部下ろして橇を裏返しにし、ランナーの鉄板にヤスリをかけ、紙ヤスリで仕上げる。
最後に自分の食糧をテントに入れ、靴やズボンの雪を棒で叩き落としてテントに入る。ここまでにざっと一時間半はかかる。毎日のことなので半ば慣れているが、ひとりでこれだけのことをやるのはつらい。
テントに入るとまず石油コンロに火をつけ、履いていた靴、内靴、毛皮の手袋、毛糸の手袋、帽子、マフラー、ヤッケをテント内にわたした紐に吊り下げて乾かす。テントの天井はたちまち一杯になってしまう。
石油コンロは身動きしたときひっくり返さないように木箱の中に入れておく。氷を溶かしたお湯で紅茶をのみ、カンテラの明りを頼りに地図を見ながら食事をとる。腹いっぱいに、これ以上は何も入らないというところまでつめ込む。約一キログラムだ。
食事がすむと、その日切れたりほころびたりした犬の胴バンド、ムチ、靴の修理をすませ、紅茶をのみながら日記をつける。瞬く間に十二時をすぎ、ときには一時、二時にもなる。日中の疲労で、ほころびをつくろう縫針をもったまま、眠ってしまうこともあった。
石油コンロは氷を溶かしてお茶を飲むだけ。暖房のために使うわけにはいかない。橇の重量を抑えるために、それに見合う量の石油を積んでいず、一日一リットル以上は使えないのだ。
1975/1/10
今日、とんでもない出来事があった。町で用をすませてテントに戻ってみると、数十頭の野犬が私の橇のまわりに群がり、橇の床の下に隠しておいたオヒョウを食い荒らしていた。あわてて野犬どもを追い払ったが時すでに遅く、オヒョウの大半はなくなっていた。
橇からそうとう離れた氷のブロックに繋いである私の犬は、自分たちも食いたかったのだろう、狂ったように吠えていたが、どうにもなるものではなかった。
私は野犬に対する憎さと、管理がずさんだった自分に対する腹立たしさとで煮えるような思いだった。これでまた犬の食糧を買い集めなければならなくなった。三日間のオヒョウ釣りの労働が水の泡だ。
1975/1/20
ライフルの引金をひいた。ライフルはカチッという金属音を立てただけで、発射しなかった。油が凍てつき、薬莢が爆発しなかったのだ。
先日、オヒョウ釣りの最中に寝てしまったこと、そしてこのアザラシ射ちの失敗が心にこたえた。こんな未熟な技術では、このさきいったいどうなることか。
1975/1/22
犬たちは、私が容赦なく振りまわすムチやクサリをこわがって、外側を走るべき犬が内側に入ってくる。そのため犬の曳綱がもつれ、よじれて一本になる。私は橇をとめ、いったん橇から曳綱をはずして、もつれをほどいてやらなければならなかった。
曳綱をほどこうとしていたとき、どうしたわけか、犬たちが喧嘩をはじめた。犬は二組にわかれて吠えあい、噛みあう。綱をほどき終えようとしていた私は、「オーレッチ」(動くな)と大声で叫んだ。私に叩かれると思ったのか、入り乱れていた犬たちが、私から離れようとしていっせいに曳綱を引っぱった。その力は強く、私の二本の腕では支えきれなかった。一瞬、私は曳綱を離してしまった。身軽になった犬は、アッという間に虫綱をつけたまま走り去って闇の中に消えた。
「アイー、アイー」
叫びながら懸命に追いかけた。闇の中で答えるものはなかった。一瞬の出来事に、私は呆然自失した。私はすべての犬を失ったのだ。橇の上にへなへなと坐り込んだ。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。 俺はたった一人で、暗闇と寒気と氷の中に取り残されたのだ。ムチを振り、棒やクサリまで叩きつけた罰が当ったのだろうか。めざすウパナビック部落まではまだ六十キロ以上ある。それなのに俺はたった一人、ここに置き去りにされた。
十分もそうしてへたりこんでいただろうか。日本のことが頭に浮んだ。結婚して間もない女房、友人、先輩たち、一人一人の顔を思い出しているうちに心が落着いてきた。まだここで死ぬわけにはいかない。俺はこれと同じような目に何度もあってきているじゃないか。 生きて、エスキモー部落までたどりつかなければならない、と自分にいいきかせた。
橋は犬の食糧のアザラシの凍肉、生活用具などを積み、総重量三百キロはある。橇は捨てよう。テント、シュラフ、石油コンロ、少量の肉、それに地図と磁石を背負って歩くのだ。暗闇の中でもピッケルを持って薄氷をチェックしながら進めば、何とか切り抜けられるのではないか。マイナス四十度の寒さにだけは気をつけねばならぬ。凍死の危険は大きい。
橇から荷物を下ろそうとして紐に手をかけようとしたとき、橇の前に走り寄ってくる影があっ た。アンナだった。アンナが五頭の犬を連れて帰ってきてくれたのだ。
うれしかった。私はとびあがった。すぐにアザラシの肉を鉈で割って、少量ずつだったが、4頭の帰還者たちに与えた。アンナたちは肉の塊を噛むこともせず、アッという間にまる呑みにした。
他の犬も戻ってくるかもしれないと、希望をつないだ。一時間待ったが、むなしかった。六頭の犬を橇に繋ぎ、私が後ろから橇を押して歩きはじめた。
顔から汗が流れ、汗はアゴのあたりで氷りついた。かぶっているキツネのフードは、汗が氷って真っ白になった。百メートルも押すと私はたちまちにして息が切れた。止まると体中の汗が冷え、身が氷りつくような寒さだった。また押して歩く。何度も何度も繰り返すうちに、頭をおおうフードが、カブトのようにカチンカチンに氷った。頭を動かそうとしても動かないのだ。
私は次第に薄氷の危険に鈍感になっていく自分に気づいていた。だが、どうすることもできない。最短距離をとって進むことを自分に許した。
一つの島をまわりこむと、暗闇の中に、遠い明りがあった。ウパナビックだ。時計を見た。午前五時。歩きはじめてから十三時間経っていた。
1975/1/24
いつまでも幸運がつきまとうとはかぎらない。どう考えてもこれ以上旅を続けることはできない。もし生きて還りたいのなら、もうこの旅は中止すべきだ。
私はフラフラとテントを出た。町へ行って罐入りビールを半ダース買った。またテントにもぐり込み、一本のビールを一気に飲んだ。何もかも気に入らなかった。テントの外で騒いでいるらしいエスキモーもうとましかった。
コペンハーゲンを出発するとき、今度の旅の間はアルコールをいっさい口にしないという誓いを自らに立てた。だが、もうどうでもいい。二本、三本とまずいビールを飲むうちに、涙がボロボロ出た。泣いてもしかたがないことだとはわかっていても、涙のほうで勝手に出てくるのだ。自分としては一所懸命やってきたつもりだった。だがこれ以上続けると、生命を落としてしまう。自分自身に向ってそう言い訳をしながら、私は苦いビールを飲んだ。
何時間たったか、目が覚めると石油コンロが消えていて、寒さにふるえた。かじかむ手でコンロに火をつけた。ビールの酔いはとれていたが、頭痛が残った。外にはエスキモーの声ももう聞えなかった。
深い静寂があり、ときおり風の吹きぬける音だけが聞えた。私は暖かいコンロの火を見つめながら、過去のことを想い出していた。これまでも単独登山や単独の冒険行で、テントの中や雪洞の中で待機しなければならないようなとき、私はよく過去の想い出にふけり、それが一つの癖になった。それは単独行にのみ許される、楽しく、ときには甘美でさえある時間だった。今、楽しい想い出にふけっているような状況ではなかったにもかかわらず、なぜか過去の出来事が次から 次へと脳裏によみがえってきた。
ケニヤのジャングルの中を、ピッケルを槍のようにかまえ、案内の黒人青年とヒョウにおびえながら登った。はじめてヨーロッパ・アルプスを見たとき、興奮のあまり駆け上るようにしてモンブランにとりついた。ボッソン氷河を横断中、隠れたクレバスに落ちこんで氷壁のあいだにはさまって宙吊りになった。クレバスは底なしに暗く深く、奈落のように見えた。
アルプスのふもとのモルジンヌのスキー場でアルバイトをしていた頃は、山行の旅費を貯めるために、毎日毎日ジャガイモばかり食っていた。アマゾンの最上流からのイカダ下り。真夜中、嵐にあってイカダがひっくり返りそうになった。どうすることもできず、旅で知り合ったある尼僧の名前を呪文のように口の中でつぶやいていたものだった。
エベレスト、頂上まであと五百メートルというときの緊張と息苦しさ。厳冬期のグランドジョラスの北壁登攀。 地獄のような寒さと飢えだった……。
すべてがつい昨日のことのように、鮮明なイメージとなって頭の中を通過していった。
少しずつ、体の中に勇気がわいてくるようだった。俺は今と同じくらいきびしい場面に耐えてきたではないか。危険を乗り越えてきたではないか。
状況がきびしいという理由で、今ここで旅を中止すればどうなるか。大嘘つきとまではいわれないにしても、今後俺が考える冒険のブランは、だれもまともには聞いてくれなくなるだろう。俺の今後の夢はそれがどんなものであれ、実現はきわめてむつかしくなるだろう。
明日行動したからといって、俺は死ぬわけではない。俺はまだほんとうに死に直面していないのだ。旅を中止するのは、それからでも遅くはないはずだ。
もう一度、犬を補強して新しいチームをつくってみよう。一日一日を力いっぱいやってみて、それでもダメだったらあきらめればいいのだ。
私は我に返ったような気持で、どん底の状態から抜け出した。弱気はいつのまにかぬぐい去られ、ふたたび血が燃えてくるのがわかった。たぶん私はあまりにも疲れすぎていただけなのだ、と思った。
1975/2/15
私は一段上になっている古氷のヘリいっぱいに橇を進めようとするのだが、走りはじめた犬たちはいうことを聞かない。足まかせに、走りやすいルートをとるのだ。次第に古氷から離れ、新氷の上に大胆に出ていってしまう。
「コラ、出すぎだ、アッチョ、アッチョ」(右へ、右へ)
そういって、犬にムチを振りかけたとき、ズブン、という音とともに氷が割れ、いちばん左側を走っていた犬が海水に落ちた。割れ目がひろがり、三、四頭が続いて落ちた。
「しまった」
私は橇からころがるようにしてとび降りた。足下の氷に裂け目が走り、氷盤がたわんだ。両手をつき、四つん這いになって、古氷の上に逃れた。
四頭の犬が海水につかってもがいている。橇が先端を海水に突っ込むと、橇の下の氷が割れはじめ、みるみる海水に沈みはじめた。四頭の犬は、沈みかけた橇を足場にして氷の上に這いあがろうとしてもがいた。
しまった、しまった。
目の前で沈んでいく橇、曳綱をつけたまま懸命に古氷のほうへ逃れようとする犬たち。だが私はどうすることもできない。恐怖と絶望で、古氷の上に釘づけになったまま、動けない。ただ沈んでいく橇を茫然と見ていた。
橇の前方に積んだ三頭のアザラシが水中にかくれ、ずり落ちるようにして橇は徐々に姿を消し、後部の長柄の先端だけが最後まで出ていたが、やがて長柄に固定してあった、修理具と狩猟用具の入った袋ともども水中に没した。
私の手に残っているのは、握っていたムチ一本だけだ。食糧も、装備も、すべて失ったのだ
「ああ、ここで俺は死ぬのか」――沈んでいく橇を見ながら、ただそれだけを思った。エスキモ一部落からは遠く離れている。誰の助けも得られない。装備もない。食糧もない。俺は凍死してしまう。涙が流れた。
犬たちがけたたましく鳴き叫んでいた。私は絶望からわれに返った。犬は、古氷にたどりつこうとして必死でもがいているのだ。
心を落着けよう。とにかく犬を古氷にたどりつかせるのだ。そうすれば、橇をひきあげられるかもしれない。それがダメでも、犬さえ確保できれば、二百キロ先のサビシビックまで歩きとおせるかもしれない。犬を食いながら、四、五日歩くことができれば助かるかもしれない。
犬だけでもなんとか古氷の上に救い出したいが、新氷の上に出るのが恐ろしい。体を確保するロープさえあったらと思うのだが、すべて沈んだ橇に積んだままだ。私は恐怖で、新氷の上に足をのせられなかった。足がガタガタふるえた。「助けてください、俺を助けてください」と、声に出して神に叫んだ。
そのとき、いったん沈んだ橇がふたたび浮びあがってきたのだ。積荷が、水面にわずかに頭を出した。奇蹟としか思えなかった。
もう、泣くな、狼狽するな。私は自分を叱りつけ、意を決した。橇をひきあげるのだ。
ポケットからナイフをとりだし、手にもった。四つん這いになって、ジリッジリッと新氷の上を進んだ。古氷から橇までの十二、三メートルが、遠かった。
なるべく割れにくそうな氷の上に足場をとり、まず後部の長柄にとりつけた袋の紐を切ってはずした。さらに後部の敷皮をしめていたロープを切り、シュラフをはずした。
薄氷の割れる危険はあったが、私は少しずつ大胆になった。海水は冷え冷えと口をあけて私をおびやかしていた。落ちたら、死が待っている。しかし、やってみるしかない。
腕をのばし、二十リットルの石油タンクと、木箱をひきあげた。軽くなった橇が、かなり浮いてきた。
だが体の下の氷が無気味にたわんでいる。これ以上ロープなしで動きまわるのは無謀だ。橇はいまや半分浮んでいる。犬たちと力をあわせてひけば、氷の上にひきあげられるかもしれない。
橇のそばから腹這いになって、犬たちの後方にまわり込んだ。犬の綱を握り、「ヤー、ヤー」 と犬を励まし、自分も力まかせに引っぱった。
犬は死にもの狂いで古米のほうへ逃げようとする。足を何度も踏み滑らせるうちに、氷がへこみ、ピシッピシッと割れ目が入る。私は祈るような気持で、握っている曳綱に力をこめた。
櫂の先端が海水から突き出し、氷を割りながらも少しずつ動きはじめた。カーブしたランナーの先端が乗りあげるたびに、氷が割れて水に落ちる。
先頭のアンナがようやく古氷にとどいた。つづく犬たちも古氷までたどりついた。落ちた犬たちも曳綱をひっぱって海水から助けだした。
「助かった。俺はもう死ぬことはない」
最後の力をふりしぼって、橇を古氷の上にあげた。一瞬気が抜けたようになり、濡れた手や足先がピリピリと痛むのに気づいた。
水につかった橇はひきあげると同時にカチンカチンに氷りついた。ムチの柄で氷を叩き落とした。
アルミニウムのトランクを開けてみると、少し水がしみ込んだところがあったが、着替え、カメラ、フィルム、パスポート、みな無事だった。私は何一つ失わずにすんだのだ。
カメラをとり出し、橇の落ちた場所にレンズを向けた。あらためてレンズを通して現場を見ると、つくづく九死に一生を得たのだ、という実感がわいてきた。
1975/4/2
昨日、キツネの糞を発見した岩場の雪に、三つ四つ茶筒ほどの穴が掘られている。この穴の下にセイウチの肉がデポしてあるはずだ。
その肉は昨年の八月、この海峡で狩りをしたシオラバルクのエスキモーたちが、翌年の夏通りかかる私のためにセイウチを四頭、デポしておいてくれたものだった。
氷を割る鉄棒で穴をひろげると、鉄棒が石に当った。肉はこの下だ。
しかし、石は氷りついてちょっとやそっとでは動かない。鉄棒を梃子にして一つ一つとり除いたが、石の下にあるのはセイウチの皮ばかり、肉は一片もない。キツネは柔らかい肉だけを食べ、堅い皮は残していったのだ。
漬物石大の石十個ばかりで一頭のセイウチを覆いきれるはずはない。飢えたキツネの執念を、彼らは甘くみすぎたのだ。私の心は暗然たるものだった。
やむを得ず、セイウチの皮でも与えぬよりはましだろうと拾い集めてみたが、カチカチに氷った皮は瓦のように硬く、斧でも割れない。しかし、何とか食べさせなければ、犬はもう明日一歩も先へは進めないのだ。
ふとアイデアが浮んだ。テントの天井から氷った皮をぶら下げ、石油コンロをたいてテントの中を暖めた。三十分もすると表面の脂肪がとけて滴るようになり、ナイフで切れる柔らかさになった。てごろな大きさに切って与えると、ろくに噛みもせず呑みこむように、一頭あたり二キロほど食べてしまった。
しかし翌日、せっかく食べたセイウチの皮を、犬たちはそのまま排泄していた。凍った皮は少しくらい溶かしても消化しないのだ。
1975/6/2
アザラシ狩の成功で、コースは自動的に決まった。海岸沿いに南回りでケンブリッジベイを目指すのだ。
これまで射撃の下手な私にはむりだと思いこんでいたアザラシを射ちとめたのは、何にもまして嬉しいことだった。
精神が集中していなければどんな立派な道具を持っていても役に立たない。これまで私は、ライフルを橇の上に無造作に置き、その上に腰をかけたりもした。そんなことでは照準が狂うのは当りまえだ。旧軍隊が銃を大切に扱わせたのは当然のことだったのだ。
1975/6/7
今日もアザラシを三頭とる。もうアザラシ狩も余裕綽々で、引金を引くときも心臓の鼓動が聞こえたりはしない。撃ったあとは必ず針金にボロ布を巻いて銃身を掃除する。
1976/4/19
茶を飲んでいるとまた犬が激しく吠えはじめた。二十分も経っていない。また白熊がのっそり乱氷の中からあらわれたのだ。こんどは多少、気分的にゆとりがあり、8ミリをとり出してまわし始めた。左手にライフルを持ち、右手の8ミリで犬に吠えられている白熊を撮る。一ロールまわしたところで、こんどはカメラをとり出し大急ぎでシャッターをきった。しかし、やはりあわてていたのだろう、シャッタースピードを千分の一できったつもりだったが、あとで六十分の一できっていたことがわかった。
だが、いくら犬が吠えても白熊は立ち去らない。よほど空腹なのだ。
危ないと思って、白熊の頭付近をめがけて、五発続けて射った。ようやく白熊は後退しはじめ、乱氷の中に消えた。
またやってこられると厄介なので、大急ぎでテントを畳んで出発した。
太陽が水平線に沈まないうち、橇をとめ、テントを張り、まわりを犬でかため、ライフルをテントの中に持ち込み、側に置いて寝た。白熊は、橇に積んでおいたアザラシがお目当てなのだ。夏場にとったアザラシの脂肪が溶け、強い臭気を発する。この匂いをかいで風下からやってきたのだ。
海氷の上に新しい白熊の足跡を発見する。海氷のへりから四、五十メートル内側に入ったあたりで、それより海氷よりには足跡がなかった。これ以上海氷に近づけば危険だという限界を、白熊は知っているのだろう。氷の厚さは五センチ程度、白熊の足跡の内側を安全圏と判断して橇を走らせた。
午後、東風が強まってきたので、橇の後ろにボールをセットして四角錘のテントを傘のように広げた。この帆が奇効を発揮した。帆を広げてからは、橇は犬三、四頭分の力を加え、さらに快調に走った。
エスキモーの古小屋の屋根からシート地をはがして犬の足袋にする。一日かかって六十足できた。足袋は袋状に縫いこむだけ、足にはかせた上から、脱げないように紐で結ぶのだ。今日までにいったい何足の足袋を作ったろう。五百足は作っているはずだ。指の先には針仕事で水疱ができている。
十四頭の犬に足袋をはかせてやるのには一時間近くかかる。午前九時、パーカー湾を出発。 ところが一時間も経たないうちに全部底が破けて、傷ついた足底が出てしまった。雪はたちまち滴り落ちる血で赤く染まる。足袋の材料にしたキャンバスは、屋根にかぶせられて風雪と寒さにさらされ、もろくなっていたのだろう。せっかく昨日一日がかりで作ったのにと情なかった。
カリブーのコリッタ(防寒衣)を落としているのに気づいた。乱氷の間に落ちこんだ橇を引き上げたり押したりしながら進んでいるとき、マイナス二十六度の中でも汗をかき、脱いだコリッタをそのまま橇に積んでおいたのだ。
橇の荷をゆわえた紐にひっかけておいた羽毛のアノラックを落としてきたことに気づいた。幸い、グレイスフィヨルドで作ったパーカを持っていたのであきらめることにした。スペアがあると気が緩んで注意力が散漫になる。
…エスキモーとの交流…
二年前、シオラバルクでエスキモーと一緒に犬の肉は食べたことがある。しかし目の前の骨付き肉は、ヤコブスハウン以来わが橇を曳いてくれた犬のそれだ。ソンドロ・ウバナビックを出発後、犬に逃げられたときも、逃げずに戻ってき てくれた六頭のうちの一頭であった。
手をつけないでいる私に気づいて、彼らの顔から笑いが消えた。
「どうして犬の肉を食べないのだ」
ヨーンさんが心配そうに訊ねた。私は日本語で「ちょっと」といい、無理に笑顔をつくった。私の気持を説明しても、彼らにはわかってもらえないだろう。しかたのないことだ。 アーネさんは、私の旅立ちのために、朝早くから起き、犬を料理してくれたのだ。彼らが食べたいからではなく、私のためにしてくれたことなのだ。
私は心を決めた。二人が見守るなか、手をのばしていちばん小さな塊をつかんだ。左手で肉をつかみ、歯でかみ、口もとでナイフを使って肉を切った。エスキモーのやり方だ。ケシゴムほどの肉片が舌の上にのった。苦い薬を飲むよりももっとひどい味だった。呑み込むと、喉を石ころが通っていくようだった。笑いを浮べ美味しいという仕種をし、彼らの好意にそむかないよう に、懸命にその一塊りを食べきった。そして、昨夜アザラシを腹いっぱい詰めこんだので、今朝はそんなに食べられないのだ、とことわった。
毎年数頭の白熊をとる六十五歳の老人の技術は大変なもので、若者の及ぶところではない。もちろん、すばらしい犬欄の操り手でもある。
そういう彼に対して、愚問であるとは思ったが、「白熊を見つけるにはいったいどうするのか」と訊ねてみた。
彼は、いとも簡単といわんばかりに、淡々たる口調で話してくれた。
「橇を大まかせに走らせていると、犬が自然に白熊の足跡を嗅ぎだし、見つけてくれるんだよ。白熊の足跡を見つけたら、三頭ばかりの犬を曳綱からはずして白熊を追わせる。そうやって白熊の動きを封じてしまうのさ。白熊の近くにまでいったら、こんどは全部の犬の曳綱をはずす。犬は白熊をまるく囲んで吠えかかるってわけだ。白熊が立往生し、怒って仁王立ちになったとき、前肢の間、つまり心臓をめがけて、ズドンと一発、それで死んじまう。まア、場合によっちゃアザラシ獲りよりかんたんだよ」
さらに彼は言葉をついだ。
「白熊は殺してから後、注意しなくちゃならん。射ちとった奴は、すぐに皮をはぎ、肉を解体する。また肝臓だけ取り除いて、内臓を犬に食べさせるのだ。犬はそれで白熊の味と匂いを知り、はじめての犬でも次からは白熊の匂いをうまく嗅ぎあててくれるものだよ。注意しなけりゃなら んのは、白熊の肝臓は、犬に食べさせると、毛が抜けたりして病気になるから、必ず捨てることだ。イヌイ(人間のこと。エスキモーは自分たちをそう呼ぶ)が食べると、皮膚の色が真っ白になり、あげくはカッドゥナ(白人)の色になってしまうから、絶対に食べてはならんのだ。ナオミもこれはよく覚えておけよ」
エスキモーにとっては、私はイヌイであってカッドゥナではないのだ。 エスキモーと同じか、それ以上に真っ黒な私の顔からすればそれは当然かもしれないが、こういわれるとなぜかうれしくなってしまった。
…旅の終わり、新たな旅の始まり…
1976/5/7
一年半、一万二千キロにおよぶ独り旅がいま終ろうとしている。太陽が沈み、白夜の薄明りの中で、コツビューの灯が輝きだした。この光景を、橋の上で、テントの中で何度心に描いたことか。それがいま紛れもない現実として私の前に在る。しかし、それでもこの光景を確かな現実として受けとめられない部分が頭のどこかにあって、私は頬をつねってみた。凍傷のあとが鈍く痛んだ。私はいくぶん感傷的になりながら、長かった独り旅を思い出してみた。さまざまなシーンが、前後の脈絡もなく、次から次へと脳裡にうかんでは消えた。
何度私はこの旅を中断しようと思ったことだろう。そのたびに、もう一日だけ、もう一日だけ前進してみようと自分にいいきかせた。一日、一日をなんとか乗り切るのが精一杯だった。もうこんなことは、二度とやりたくない、と思いつづけた。
私はふたたびテントの中に戻り、石油コンロでお湯をわかし、一杯の紅茶をいれた。ビスケットをかじり、お茶をすすった。この石油コンロともずいぶん長いつき合いだった。最後のひとっ走りの前に、少し眠っておこう。
1976/5/8
午後十二時四十分、私と九頭の犬はコツビューの海岸に到着した。
集っていた人びとは、口々に「コングラチュレーション」と叫び、手を差し出してくれた。私は、一人一人の手を強く握り返した。それから私はうずくまっているアンナを抱きかかえた。「終ったよ、おまえには、もう長い長い休暇があるだけだよ」
しかし、私は? 私にはそんなに長い休暇があるだろうか。たぶんそうはいかないことを、 私はぼんやりと予感した。私にとって、終りはまた始まりなのだ。
たったひとりの犬橇の旅、マイナス四十度の寒気のなかで橇を押し、クタクタになって汗をかく。生きるか死ぬかの苦闘のなかで、この苦しさが、忘れ得ない憶い出を作ってくれるのだと自分に言いきかせながら耐える。今この現在は一生忘れられない過去をつくっているのだ。
北極点への単独犬橇往復など、夢のすべてが自分の気持ちを駆り立て、心の中に強く胎動しているのである。それは科学者のように、人のために貢献しようという気持などではない。極地犬を日本に連れかえったのと同じように、ただ自分の気持を満足させたいためのものである。いいかえるなら、それはだれしもがもつ冒険心であり、あえていえば、人それぞれが生きるうえで、それぞれに合った型で試みている冒険と同じだと思う。

