ジェイの店を訪ね終えた「僕」は、「鼠」から預かっていたもうひとつの役目、かつて「鼠」が交際していた女性と会うべく、彼女の電話番号をダイヤルします。
彼女の声はとても穏かだったけれと、まるで井戸の底から響いてくるように聞こえた。
「明日の五時にホテルのコーヒー・ハウスに行くわ。八階のね。それでいい?」
「わかりました」と僕は言った。「僕は白いスポーツ・シャツにグリーンの綿のズボンをはいてます。髪は短かくて・・・」
「見当はつくからいいわ」と彼女はおだやかに僕の言葉を遮った。そして電話は切れた。
僕は受話器を戻してから、見当がつくというのがいったいどういうことなのか考えてみた。わからなかった。僕にはわからないことがいっぱいある。きっと年を取ったから賢くなるというものでもないのだろう。
性格は少し変るが凡庸さというものは永遠に変りはない、とあるロシアの作家が書いていた。ロシア人は時々とても気の利いたことを言う。冬のあいだに考えるのかもしれない。
細かい雨は翌日の五時になっても、まだ降り続いていた。僕はホテルの部屋の窓越しに外を眺めた。
六基のクレーンがうす暗い雨空にむけてそびえたち、車の列は思い出したように時折東へと流れ、傘の群れは舗道を横切り、山の緑は満足そうにたっぷりと六月の雨を吸い込んでいた。
僕はホテルの最上階に上って、広いバーに入り、コーヒーを注文した。コーヒーが出てくるあいだ、椅子のひじ掛けの上で頬杖をついて目を閉じていた。
何も思いつかなかった。目を閉じていると、何百人もの小人がほうきで頭の中を掃いているような音がした。いつまでたっても彼らは掃き続けていた。ちりとりを使うことを誰も思いつかないのだ。
「遅くなってごめんなさい」僕の後で女の声がした。「仕事が長引いちゃって、どうしても抜けられなかったの」
「構いませんよ。どうせ今日は一日何もすることがないんです」
彼女はテーブルの上に傘立ての鍵を置き、メニューを見ずにオレンジジュースを注文した。
「あの人が消えてから、三ヵ月待ったわ。十二月、一月、二月。いちばん寒い頃ね。あの年の冬って寒かったかしら?」
「覚えてませんね」と僕は言った。彼女が話すと五年前の冬の寒さが昨日の天気みたいに聞こえた。
「あなたはそんな風に女の子を待ったことある?」
「いいえ」と僕は言った。
「ある限られた時間に待つことを集中してしまうと、もうそのあとはどうでもよくなってしまうの。最初に結婚したときもそうだったわ。私はいつも待つ側で、そして待ちくたびれて、結局はどうでもよくなってしまうのよ。21で結婚して、22で離婚して、それからこの街に来たの」
「僕の家内と同じです」
「何が?」
「21で結婚して、22で離婚したんです」
彼女はしばらく僕の頃を見た。それからマドラーでオレンジジュースをぐるぐるとかきまわした。余計なことを言ってしまったような気がした。
「若いうちに結婚してすぐに離婚するって結構つらいのよ」と彼女は言った。「簡単に言ってしまうと、とても平面的で非現実的なものを求めるようになるのね。でも非現実的なものって、そんなに長くはつづかない。そうじゃないかしら?」
「そうかもしれませんね」
「離婚してから彼に会うまでの五年間、私はこの街で一人きりで、まあわりに非現実的に暮していたの。知った人も殆んどいないし、たいして外に遊びに行きたくもないし、恋人もいないし、朝起きて会社に行って、図面を書いて、帰りにスーパー・マーケットで買物をして、家で一人で食事をするの。FM放送をつけっ放しにして、本を読んで、日記をつけて、風呂場でストッキングを洗うの。アパートは海岸にあるから、ずっと波の音が聞こえたわ。寒々しい生活だわね」
彼女はオレンジ・ジュースの残りを飲んだ。
「つまらない話をしているみたいね」
僕は黙って首を振った。
六時を過ぎて、ラウンジはカクテル・アワーに入り、天井の照明が暗くなった。街には灯がともりはじめていた。クレーンの先にも赤い灯がついた。淡い夕闇の中に細い針のような雨が降りつづいていた。
「お酒でも飲みませんか?」 と僕は訊ねてみた。
「ウォツカをグレープフルーツで割ったのはなんだったかしら?」
「ソルティー・ドッグ」
僕はウェイターを呼んでソルティードッグとカティー・サークのオン・ザ・ロックを注文した。
「どこまで話したかしら?」
「寒々しい生活、というところです」
「でも本当のことを言えば、それほど寒々しいというわけでもなかったのよ」と彼女は言った。
「ただ波の音だけはね、少し寒々しかった。アパートの管理人は入る時に、すぐに慣れるって言ったけど、そうでもなかったわ」
「もう海はありませんよ」
彼女は穏かに微笑んだ。目の横のしわがほんの少し動いた。「そうね。あなたの言うとおりね。もう海はないわ。でも、今でも時々波の音が聞こえるような気がするの。きっと長いあいだに耳に焼きついちゃったのね」
「そしてそこに彼が現われたんですね?」
「そうよ」
飲み物が運ばれた。彼女はソルティードッグを一口飲んでから唇についた食塩を紙ナプキンで拭った。 紙ナプキンにはほんの少し口紅がついた。口紅がついた紙ナプキンを彼女は二本の指で器用に折りたたんだ。
「彼はなんていうか······十分に非現実的だったわ。私の言ってることわかるでしょ?」
「わかると思います」
「私の非現実性を打ち破るためには、あの人の非現実性が必要なんだって気がしたのよ。はじめて会った時にね。だから好きになったの。それとも好きになってからそう思ったのかもしれないわ。どちらにしても同じことだけれど」
広いラウンジの真ん中で、ピアノ弾きの女の子が古いスクリーン・ミュージックを弾きはじめた。間違ったシー ンのための間違ったBGMみたいに聞こえた。
「時々こう思うの。結果的に私はあの人を利用していたんじゃないかってね。そして彼はそれをはじめからずっと感じとっていたんじゃないかしらってね。そう思う?」
「わからないな」と僕は言った。「それはあなたと彼とのあいだの問題だから」
彼女は何も言わなかった。
二十秒ばかりの沈黙のあとで、僕は彼女の話がもう終っていることに気づいた。僕はウィスキーの最後の一口を飲んでから、ポケットの中の鼠の手紙を取り出し、テーブルのまん中に置いた。手紙はしばらくそのままテーブルの上に載っていた。
「ここで読まなくちゃいけない?」
「家に持って帰って読んで下さい。読みたくなかったら捨てて下さい」
彼女は肯いてバッグに手紙をしまった。ぱちんという気持の良い金具の音がした。
僕は二本目の煙草に火を点け、二杯めのウィスキーを注文した。
二杯めのウィスキーというのが僕はいちばん好きだ。一杯めのウィスキーでほっとした気分になり、二杯めのウィスキーで頭がまともになる。三杯めから先は味なんてない。ただ胃の中に流し込んでいるというだけのことだ。
「これだけのために東京からわざわざ来たの?」と彼女が訊ねた。
「殆んどそうですね」
「親切なのね」
「そんな風に考えたことはないな。習慣的なものですよ。もし立場が逆だったとしても彼も同じことをすると思うしね」
「してもらったことはある?」
僕は首を振った。「でも我々は長いあいだいつも非現実的な迷惑をかけあってきたんですよ。それを現実的に処理するかどうかというのはまた別の問題です」
「そんな風に考える人っていないんじゃないかしら」
「そうかもしれませんね」
彼女はにっこり笑って立ちあがり、伝票を手に取った。「ここのお勘定は払わせて。四十分も遅れちゃったんだし」
「その方が良いんならそうして下さい」と僕は言った。「それからひとつ質問していいですか?」
「どうぞ、いいわよ」
「あなたは電話で僕の外見の見当がつくって言いましたね」
「ええ、私は雰囲気というつもりで言ったんだけど」
「それで、すぐにわかりました?」
「すぐにわかったわ」と彼女は言った。
雨はまったく同じ強さで降りつづいていた。ホテルの窓からは隣りのビルのネオンサインが見えた。その緑の人工的な光の中を無数の雨の線が地表に向けて走っていた。窓際に立って下を見下ろすと、雨の線は地表の一点に向けて降り注いでいるように見えた。
僕はベッドに寝転んで煙草を二本吸ってから、フロントに電話をかけて翌朝の列車を予約してもらった。この街で僕がするべきことはもう何も残っていなかった。
雨だけが真夜中まで降り続いていた。