長野商工会議所・飲食サービス部会の「青空勉強会」として、長野市郷土史研究会・小林会長の案内で、長野駅前から西方寺に歩く道すがら、「かるかや山・西光寺」を見学しました。
西光寺は正治元年(1199年)、善光寺如来の導きによって、高野山より信濃の地に下った「苅萱道心 (筑前領主・加藤左衛門尉重氏が出家して名乗った法師名) 」が、善光寺から南10丁ほどにあった小高い丘に草庵を結んだことが端緒となります。
本尊は、開祖苅萱道心とその子信照坊道念上人(幼名石童丸)が刻んだ二体の親子地蔵尊です。
江戸時代の「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」が寺宝として伝わり、参拝者の求めに応じて絵解き口演をおこなっていることから、「絵解きの寺」として親しまれています。
絵解きとは、絵画を用いた説教のこと。そのルーツはインドにあるとされ、中国・朝鮮半島から日本に伝わって来ました。もともと仏教の教化が目的でしたが、鎌倉時代あたりから芸能化していき、江戸の頃には、口演者の当意即妙な語りが聴衆を引き付ける、庶民の娯楽として楽しまれたそうです。
本日は時間の関係で聴くことは出来ませんでしたが、いつか是非…。
「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」(『石童丸物語(いしどうまるものがたり)』)
今からおよそ800年前、九州6ヵ国の国守 “加藤左衛門尉重氏” は、世の無常を悟り、所領も身重の妻も捨てて出家、法然上人の弟子となり13年、やがて高野山へと入られました。
国に残された妻の千里御前は男児を出産し、「石童丸」と命名。石童丸13歳の春の頃、父恋しさをつのらせ、母とともに父を尋ねて長い旅に出られました。
やがて高野山の麓まで来たものの、当時は女人禁制。石童丸は麓の宿に母を残し、ひとり山に入ります。
山内をさまようこと3日3晩の後、奥の院無明の橋で花桶を下げた僧に出逢いました。この僧こそ父・苅萱道心でした。道心は、石童丸がわが子であると知りますが、今は仏に捧げた身のため、名乗ることは出来ません。
「尋ねし父は、既にこの世にない」と石童丸に告げ、山を下りるよう論します。
涙ながらに山を下りた石童丸を待っていたのは、母を引き取ったばかりの母でした。悲嘆にくれ、泣く泣く国に帰れば、姉千代鶴姫も亡くなっておりました。
天涯孤独となった石童丸は再び高野山に登り、苅萱上人を父と確信しつつも、師僧と仰ぎ弟子となり、信照坊道念と名乗り、34年間ともに修行されました。
ある日、苅萱道心は、善光寺如来に導かれて信濃の地に下ります。草庵を営み日々善光寺に参龍なさること14年、一刀三礼の地蔵尊を刻まれ、83歳で大往生を遂げられました。
道念は、父苅萱の往生したことを悟り、当山へ移り住み、父の菩提安かれと苅萱塚を建立されました。ご自身も一刀三礼の地蔵尊を刻み、その後も念仏に励まれ、苅萱道心入寂2年後に63歳で極楽浄土に赴かれたのであります。