「顔色が悪いよ」と羊男が言った。
僕はソファに腰をおろし、何も言わずに缶ビールのふたを開けてひと口くち飲んだ。
「きっと風邪をひいたんだよ。慣れない人にはここの冬は寒いからね。空気も湿っているし。今日は早く寝たほうがいい」
「いや」と僕は言った。「今日は寝ないよ。ここでずっと友だちを待つんだ」
「今日来るってわかるのかい?」
「わかるよ」と僕は言った。「彼は今夜十時にここに来るんだ」
羊男は何も言わずに僕を見ていた。マスクからのぞく目にはまるで表情というものがなかった。
「今晩荷づくりをして、明日にはひきあげるよ。彼に会ったらそう伝えておいてくれ。たぶんその必要もないと思うけれどね」
羊男はわかったといった風に肯いた。「あんたが行ってしまうとさびしいよ。まあ仕方ないことだとは思うけどね。ところでチーズサンドウィッチをもらっていいかな?」
「いいよ」
羊男は紙ナプキンにサンドウィッチをくるみ、ポケットに入れると、手袋をはめた。
「会えるといいね」と帰り際に羊男は言った。
「会えるさ」と僕は言った。
羊男は草原を東の方に去っていった。やがて雪のヴェールがすっぽりと彼を包んだ。
あとには沈黙だけが残った。
僕は羊男のグラスにブランデーを二センチばかり注ぎ、一息で飲みくだした。咽喉が熱くなり、やがて胃が熱くなった。
そして三十秒ほどで体の震えがとまった。柱時計が時を刻む音だけが誇張されて頭の中で鳴り響いていた。
たぶん眠るべきなのだろう。
僕は二階から毛布を取ってきて、ソファーの上で眠った。僕は三日間森の中をさまよい歩いた子供のようにぐったりと疲れていた。目を閉じた次の瞬間にはもう眠っていた。
僕は嫌な夢を見た。とても嫌な、思い出せないほど嫌な夢だった。
暗闇が油のように僕の耳からしのびこんできた。誰かが巨大なハンマーで凍った地球を叩き割ろうとしていた。
ハンマーは正確に八回地球を打った。地球は割れなかった。少しひびが入っただけだった。
暗闇の中に八時半の鐘が鳴り響いた。雪は降り止んでいたが、あいかわらず厚い雲が空を覆っていた。完全な暗闇だった。
僕は長いあいだソファーに沈み込んだまま親指の爪をかんでいた。自分の手さえはっきりと見えない。ストーブを消しているせいで、部屋は冷えびえとしていた。
僕は毛布にくるまって、ぼんやりと闇の奥を眺めた。深い井戸の底にうずくまっているような気がした。
時間が流れた。闇の粒子が僕の網膜に不思議な図形を描いた。描かれた図形はしばらくすると音もなく崩れ、別の図形が描き出された。
水銀のように静止した空間の中で、闇だけが動いていた。
僕は思考を止め、時を流れるにまかせた。時は僕を流しつづけた。新たな闇が新たな図形を描いた。
時計が九時を打った。
九つめの鐘がゆっくりと暗闇の中に吸いこまれてしまうと、沈黙がその間隙にもぐりこんだ。
「話していいかな?」と鼠が言った。
「いいとも」と僕は言った。