「約束の時間より一時間も早く来すぎちゃったよ」と鼠は済まなそうに言った。
「いいさ。見てのとおりずっと暇なんだ」
鼠は静かに笑った。彼は僕の背後にいた。まるで背中あわせに座っているような感じだった。
「なんだか昔みたいだな」と鼠は言った。
「きっと我々はお互いに暇をもてあましている時にしか正直に話し合えないのさ」と僕は言っ た。
「どうもそうらしいね」
鼠は微笑んだ。漆黒の闇の中で背中あわせになっていても彼の微笑みはわかる。ちょっとした空気の流れと雰囲気だけで、いろんなことがわかる。
かつて我々は友だちだったのだ。もう思い出せないほど昔の話だ。
「でも暇つぶしの友だちが本当の友だちだって誰かが言ってたな」と鼠は言った。
「君が言ったんだろう?」
「相変らず勘がいいね。そのとおりだよ」
僕はため息をついた。 「しかし今回のこのドタバタに関しては、僕はおそろしく勘が悪かった。死んでしまいたいくらいだよ。君たちがあれほど沢山ヒントをくれたのにね」
「仕方ないさ。君はよくやった方だよ」
我々は黙った。 鼠はまた自分の手をじっと眺めているようだった。
「君にはずいぶん迷惑をかけてしまったな」と鼠は言った。「本当に悪かったと思うよ。しかし、それしか方法がなかったんだ。君以外には頼れる人間がいなかったんだよ。手紙にも書いたようにね」
「それについて話が聞きたいな。このままじゃ納得できないからさ」
「もちろんさ」と鼠は言った。「もちろん話す。でもその前にビールを飲もう」
僕が立ちあがりかけたのを鼠が押しとどめた。
「俺がとってくるよ」と鼠は言った。「なにしろここは俺の家だからね」
鼠が闇の中を慣れた足取りで台所まで歩き、冷蔵庫から缶ビールをひとかかえ取り出している音を聞きながら、僕は目を閉じたり開けたりしていた。
鼠が戻ってきてテーブルの上に缶ビールを何本か置いた。僕は手さぐりで一本つかみ、プルリングを取って半分飲んだ。
「目が見えないとビールじゃないみたいだな」と僕は言った。
「悪いとは思うけれど、暗くないとまずいんだ」
我々はしばらく黙ってビールを飲んだ。
「さて」と鼠は言って咳払いをした。「まず、どうして俺がここにやってきたかというところから始めよう。それでいいね?」
僕は答えなかった。僕に答える意志のないことを確かめてから、鼠は話をつづけた。
「俺の父親がこの土地を買ったのは1953年のことだった。俺が五つの時だね。どうしてこんなところにわざわざ土地を買ったのか、俺にはよくわからない。
きっとアメリカ軍関係のルートから安く払い下げてもらったんだろうと思う。君も見てのとおり、実際ここは交通の便がひどく悪いから、夏はともかく、一度雪がってしまうと、まるで使いものにならない。
そんなわけでこの土地は見捨てられた土地になったんだ」
「羊博士はここに帰りたがらなかったのかい?」
「羊博士はずっと記憶の中に住んでいるのさ。あの人はどこにも帰りたがらないよ」
「そうかもしれない」と僕は言った。
「父親はすっかりこの土地が気に入って、自分で幾らか道もなおしたし、家にも手を入れた。ずいぶん金がかかったと思うよ。
しかしそのおかげで車さえあれば少くとも夏場はまともな生活が送れるようになった。」
鼠は残りのビールを一気に飲み干し、かたんという乾いた音を立てて缶をテーブルに戻した。
「1963年ごろまで、我々は夏になるとここに来たもんだよ。両親と姉と俺と、それから雑用をやってくれる女の子とね。考えてみれば、あれは俺の人生ではいちばんまともな時代だったな。
牧草地を町に貸していたから、夏になるとここは町の羊でいっぱいになったんだ。羊だらけだよ。だから俺の夏の記憶というといつも羊に結びついてるんだ」
別荘を持つというのがどういうことなのか僕にはよくわからなかった。たぶん一生わからないのだろう。
「しかし60年代の半ばごろから、家族は殆んどここにはこなくなってしまったんだ。家からもっと近いところにもうひとつ別荘を持ったせいもあるし、姉が結婚しちゃったせいもあるし、俺が家族としっくりいかなかったせいもあるし、父親の会社がしばらくごたごたしていたせいもあるし、まあなにやかやさ。
とにかく、そんな風にしてこの土地は再び見捨てられた」
鼠はそこで何かを思い出すように少し口をつぐんだ。
「父親の世話になりたくなかったから、俺はここには来ないつもりだったんだ。でも札幌のいるかホテルのロビーでここの写真を偶然見た時、どうしても一目見ておきたくなったんだ。
どちらかというと感傷的な理由でね。君だってそういうことはあるだろう?」
「うん」と僕は言った。そして埋めたてられてしまった海のことを思い出した。
「そしてそこで羊博士の話を聞いたんだ。背中に星のしるしのついた夢の中の羊の話さ。そのことは知ってるね?」
「知ってるよ」
「あとのことは簡単に話そう」と鼠は言った。「俺はその話を聞いて、急にここで冬を越してみたくなったんだよ。この気持だけはどうしても捨てられなかった。そして俺は装備を整えてここにやってきたんだ。まるで何かにおびき寄せられるみたいにね」
「そしてその羊に会ったんだね?」
「そのとおり」と鼠は言った。
「そのあとのことを話すのはとても辛い」と鼠は言った。
「この辛さはどんな風にしゃべっても君にわかってもらえないんじゃないかと思う」
鼠は空になったふたつめのビール缶を指でへこませた。
「できれば君の方から質問してくれないか? 君にももうだいたいのところはわかっているんだろう?」
僕は黙って肯いた。「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか?」
「かまわないよ」
「君はもう死んでるんだろう?」