羊博士は牧場の細かい地図を描いてくれた。旭川の近くで支線に乗りかえ、三時間ばかり行ったところにふもとの町があった。その町から牧場までは車で三時間かかった。
「どうもいろいろとありがとうございました」と僕は言った。
「本当のことを言えばあの羊にはこれ以上関らん方が良いと私は思う。私がその良い例だ。あの羊に関って幸福になれた人間は誰もいない。何故なら羊の存在の前では一個の人間の価値観など 何の力も持ち得ないからだ。しかしまあ、君にもいろいろと事情があるんだろう」
「そのとおりです」
「気をつけてな」と羊博士は言った。
「父親はお役に立てたでしょうか」支配人が心配そうに訊ねた。とても役に立ったと僕は言った。
「私もときどき何かを探すことができればと思うんです」と支配人は言った。「でもその前にいったい何を探せばいいのかが、自分でもよくわからないんです。私の父親はずっと何かを探しつづけた人です。今でも探しつづけています。だから人生というものはそういうもんだと思いこまされてきたんです。何かを探しまわることが本当の人生だという風にです」
いるかホテルのロビーはいつものようにしんとしていた。年取ったメイドがモップを持って階段を上り下りしていた。
「しかし父親は73になって、羊はまだみつかりません。本当にそれが存在するのかどうかえ私にはわかりません。本人にとってもそれほど幸福な人生ではなかったような気がするんです。私は今からでも父親に幸福になってほしいんですが、父親は私を馬鹿にしていて何も言うことをきいてくれません。それというのも私の人生に目的というものがないからです」
「でもいるかホテルがあるわ」とガールフレンドがやさしく言った。
「それにもうお父さんの羊探しも一段落したはずですよ」と僕がつけ加えた。「残りの部分は我々がひきうけたから」
支配人はにっこりとした。
「それならもう何も言うことはありません。我々はこれから二人で幸福に暮せるはずです」
「そうなるといいですね」と僕は言った。
札幌から旭川に向かう早朝の列車の中で、僕はビールを飲みながら「十二滝町の歴史」という箱入りのぶ厚い本を読んだ。
十二滝町というのは羊博士の牧場のある町である。たいして役には立たないかもしれないが、べつに読んでおいて損はない。
本によれば、現在の十二滝町のある土地に最初の開拓民が乗り込んできたのは明治13年の初夏であった。彼らは総勢18名、全員が貧しい津軽の小作農で、財産といえば僅かな農具と衣服・夜具それに鍋釜・包丁くらいのものだった。
彼らは札幌の近くにあったアイヌ部落に立ち寄り、なけなしの金をはたいてアイヌの青年を道案内に雇った。目の暗い、やせた青年で、アイヌ語で「月の満ち欠け」という意味の名前を持っていた。(たぶん躁鬱症の傾向があったのではないかと著者は推察している)
もっとも道案内にかけては、この青年は見かけよりずっと優秀だった。彼は言葉が殆んど通じないうえにおそろしく疑り深い18人の陰気な農民たちを率いて石狩川を北上した。
彼はどこに行けば肥沃な土地がみつかるかをちゃんと心得ていたのだ。
四日めに一行はそこに到着した。広々として水利はよく、あたり一面に美しい花が咲き乱れていた。
「ここなら良し」と青年は満足気に言った。「獣少なし、土地も肥えとり、鮭もとる」
「いいや」とリーダー格の農民が首を振った。「もっと奥の方がええ」
農民たちはきっともっと奥に行けばもっとよい土地が見つかると思っているんだろう、と青年は考えた。よろしい。それではもっと奥に進もうではないか。
一行はそれから二日間北に向って歩いた。そして最初の土地ほど肥沃ではないにしても洪水の心配のない高台をみつけた。
「どうだ?」と青年は訊ねた。「ここも良し。どうだ?」
農民たちは首を振った。
そのような応答を何度か繰りかえしたのち、彼らはとうとう現在の旭川に辿りついた。札幌から七日間、約140キロの旅である。
「ここはどう?」とたいして期待もせずに青年は訊ねた。
「いいや」と農民たちは答えた。
「しかし、ここから先、山歩くよ」と青年は言った。
「構わね」と農民たちは嬉しそうに言った。
そして彼らは塩狩峠を越えた。
農民たちが肥沃な平野部を避けてわざわざ未開の奥地を探し求めていたのには、もちろんそれなりのわけがあった。
彼らは実は全員が多額の借金を踏み倒して夜逃げ同然に故郷の村を出てきたので、人目につきやすい平野部は極力避けねばならなかったのである。
もちろんアイヌの青年にはそんなことがわかるわけはない。
当然のことながら彼は肥沃な耕作地を拒否して北に進みつづける農民たちの姿を見て驚き、悩み、困惑し、混乱し、自信を喪失した。
しかし青年はなかなか複雑な性格の持ち主であったらしく、塩狩峠を越える頃には彼は農民たちを北へ北へと導くその不可解な宿命性にすっかり同化されてしまっていた。
そしてわざわざ荒れた道や危険な沼地を選んで農民たちを喜ばせた。
塩狩峠を越えて四日北に進んだところで一行は東から西に流れる川にでくわした。そして合議の末、東に進むことになった。
それはたしかにひどい土地でひどい道だった。彼らは海のように生い繁った熊笹をわけ、背丈よりも高い草原を半日がかりで横切り、胸まで泥につかる湿地を横切り、岩山をよじのぼり、とにかく東へと進んだ。
夜は川原に天幕を張り、狼の声を聞きながら眠った。手は熊笹のために血だらけになり、ブヨや蚊はところかまわず貼りつき、耳の穴にまで潜り込んで血を吸った。
東に進んで五日め、彼らは山に遮られてこれ以上は前に進めないというところまで到着した。とてもじゃないがこれより先には人は住めない、と青年は宣言した。
そして農民たちはようやくその歩みを止めた。明治13年7月8日、札幌から道のりにして260キロの地点である。
彼らはまず地形を調べ、水質を調べ、土質を調べ、そこが結構農耕に適していることを発見した。そしてそれぞれの家族に土地を割り振ってからその中心に丸太で共同小屋を建てた。
アイヌの青年はたまたま近くに猟に来ていたアイヌの一団をつかまえて、「ここはなんという名の土地ですか?」と訊ねてみた。「こんなケツの穴みたいな土地に名前なんてあるわけないじゃないか」と彼らは答えた。
そんなわけでこの開拓地にはその後しばらく名前さえなかった。60キロ四方に人家のない (あるいはあったとしても交際を望んでいない) 部落には名前などそもそも不必要なのだ。
明治二十一年に道庁の役人がやってきて開拓民全員の戸籍を作り、部落に名前がないのは困ると言ったが、開拓民たちは誰も困らなかった。それどころか開拓民たちは鎌やくわを持って共同小屋に集まり、「部落には名前をつけない」という決議まで出した。
役人は仕方なく、部落のわきを流れる川に十二の滝があったことから「十二滝部落」と名付けて道庁に報告し、それ以降「十二滝部落」はこの集落の正式名称となった。
土地は約六十度の角度に開いたふたつの山にはさみこまれ、そのまんなかを川が深い谷となって貫いていた。
たしかに「ケツの穴」のような光景だった。地表には笹がからみつき、巨大な針葉樹が地底に根を広げていた。狼やえぞしかや熊や野ねずみや大小さまざまの鳥が、乏しい木の葉や肉や魚を求めてあたりをさまよっていた。蠅や蚊は実に多かった。
「あなた方、本当にここ住むんだね」とアイヌの青年は訊ねてみた。
「もちろん」と農民たちは答えた。
理由はよくわからないが、アイヌの青年は生まれ故郷には帰らず、そのまま開拓民たちとともにその土地に留まった。おそらく好奇心のためであろうと著者は推察していた。
しかしもし彼がいなかったら、開拓民たちが無事にその冬を越せたかどうかは極めて疑問である。青年は開拓民たちに冬期の野菜のとり方を教え、雪の防ぎ方を教え 凍結した川での魚のとり方を教え、狼の罠の作り方を教え、冬眠前の熊の追い払い方を教え、風向きによる天候の変り方を教え、凍傷の防ぎ方を教え、熊笹の根のうまい焼き方を教え、針葉樹を一定の方向に切り倒すこつを教えた。
そのようにして人々は青年を認めるようになり、青年も自信を回復した。彼は後に開拓民の娘と結婚し、三人の子供を作り、日本名を名乗るようになった。彼はもう「月の満ち欠け」ではなくなったのである。
しかしアイヌの青年のそのような奮闘にもかかわらず、開拓民たちの生活は極めて苛酷なものであった。
八月にはめいめいの家族の小屋が建ち揃ったが、不揃いな縦割り丸太を積みあげた程度のものだったから、冬には吹雪が容赦なく吹き込んだ。
朝起きると枕もとに一尺も雪が積っているいうのもさして珍しいことではなかった。
布団も大抵は一家に一枚しかなく、男たちは火を焚き、その前でむしろにくるまって眠った。
手持ちの食料を食べつくすと、人々は川魚や雪を掘り起こし、黒くなった蕗やぜんまいを探して食べた。
とりわけ厳しい冬だったが、死者は一人も出なかった。争いごとも泣きごともなかった。生まれついての貧しさだけが彼らの武器だった。
春がやってきた。二人の子供が生まれ、部落の人口は二十一人になった。
妊婦は出産の二時間前まで野良で働き、翌朝にはもう畑に出ていた。
新しい畑には玉蜀黍や馬鈴薯が植えられ、男たちは木を切り根を焼いて荒地を開墾した。
生命が地表に顔を出し、若い実を結び、人々がほっと一息ついた頃にいなごの大群がやってきた。
いなごの大群は山を越えてやってきた。はじめのうち、それは巨大な暗雲に見えた。次にぶうんという地鳴りがやってきた。いったい何が起ろうとしているのか、誰にもわからなかった。
アイヌの青年だけがそれを知っていた。彼は男たちに命じて畑のあちこちに火を焚かせた。
洗いざらいの家具に石油をかけて火をつけた。
そして女たちには鍋をもたせ、すりこぎで力いっぱい叩かせた。
彼は (あとで誰もが認めたように) やれるだけのことはやったのだ。しかし全ては無駄だった。何十万といういなごは畑に降りて作物を思う存分食い荒した。あとには何ひとつ残らなかった。
いなごが去ってしまうと青年は畑につっぷして泣いた。農民たちは誰も泣かなかった。彼らは死んだいなごをひとまとめにして焼き、焼き終るとすぐに開墾のつづきにかかった。
人々はまた川魚とぜんまいと蕗を食べて冬を越した。そして春が来ると三人の子供が生まれ、人々は畑に作物を植えた。
夏に再びいなごがやってきた。そして作物を根こそぎにした。アイヌの青年は今度は泣かなかった。
いなごの来襲は三年めにやっとやんだ。長雨がいなごの卵を腐敗させたのだ。しかし同時に雨が長すぎたおかげで作物が被害を受けた。次の年にはこがね虫が異常発生し、その次の年の夏はひどく冷えた。
僕はそこまで読んでしまうと本を閉じてもう一本缶ビールを飲み、バッグの中からいくら弁当を出して食べた。
彼女は向いの席で腕を組んで眠っていた。窓から射し込む秋の朝の太陽が彼女の膝に薄い光の布をそっとかぶせていた。
どこからか入り込んだ小さな蛾が風に揺られる紙片のようにひらひらと漂っていた。我はやがて彼女の乳房の上にとまり、しばらくそこで休んでから、またどこかに飛び去っていった。
蛾が飛び去ったあとでは、彼女はほんの少しだけ年老いたように見えた。僕は煙草を一本吸ってから本を開き、「十二滝町の歴史」のつづきを読み始めた。
六年になって、ようやく開拓村は活気を見せ始めた。
作物は実り、小屋は改良され、人々は寒冷地の生活に馴染んでいった。
丸太小屋は挽材できちんとした家屋に整えられ、かまどが作られ、カンテラが吊された。
人々は僅かに余った作物と干魚とえぞ鹿の角を舟に積んで二日がかりで町に運び、塩と衣服と油を買い求めた。何人かは開墾で切り倒された木から炭を焼くことを覚えた。川下には幾つかの同じような村落もでき、交流が生まれた。
開拓が進むにつれて人手不足が深刻な問題となり、村民は会議を開いて二日間議論を戦わせた末に故郷の村から何人かの後続者を呼ぶことにした。
問題は借金だったが、手紙でこっそり問い合わせてみると借金取りの方はすっかりあきらめたようだという返事が来た。
そこで最年長の農民が何人かの村の昔の仲間に、こちらに来て一緒に開墾にあたらないかという手紙を出した。
翌年6家族19人の新しい開拓民が部落にやってきた。彼らは補修された共同小屋に迎えられ、人々は涙を流して再会を喜びあった。
新住民はそれぞれの土地を与えられ、先住民の協力のもとに畑を作り家を建てた。
25年には4家族、16人がやってきた。
このように住民は増えつづけた。共同小屋は拡張されて立派な集会所となり、その隣には小さな神社も作られた。
十二滝部落は十二滝村と改められた。
人々の主食はあいかわらずイナキビ飯だったが、時折はそれに白米も混じるようになった。
不定期的ではあるにせよ郵便配達夫も姿を見せるようになった。
もちろん不快な出来事もないではない。役人がしばしば姿を見せ、税の徴収と徴兵を行うようになった。
それをとくに不快に感じたのはアイヌの青年 (彼はその頃もう三十代半ばになっていた) だった。彼には納税や徴兵の必要性がどうしても理解できなかったのだ。
「どうも昔の方が良かったような気がするな」と彼は言った。
それでも村は発展しつづけた。
明治三35年には村のすぐ近くにある台地が牧草地として適していることがわかり、そこに村営の緬羊牧場が作られた。
道庁から役人がやってきて、棚の作り方や水の引き方、牧舎の建築などを指導した。
次いで川沿いの道が囚人工夫によって整備され、やがて政府からただ同然の値段で払い下げられた羊の群れがその道を辿ってやってきた。
農民たちはどうして政府がそのように 自分たちに親切にしてくれるのか、さっぱりわけがわからなかった。
多くの人々は、これまでずいぶん苦労したんだから、まあたまには良いこともあるのさと考えた。
もちろん政府は親切心から農民に羊を与えたわけではない。来るべき大陸進出に備えて防寒用羊毛の自給を目指す軍部が政府をつつき、政府が農商務省に緬羊飼育拡大を命じ、農商務省が道庁にそれを押しつけたというだけの話である。
日露戦争は迫りつつあったのだ。
村で緬羊にもっとも興味を持ったのは例のアイヌ青年であった。
彼は道庁の役人について緬羊の飼育法を習い、牧場の責任者となった。
彼がどうしてそのように羊に興味を持つようになったのかはよくわからない。たぶん人口増加に伴って急激に入り組み始めてきた村の集団生活にうまく馴染めなかったのだろう。
牧場に来たのはサウスダウン羊36頭とシュロップシャー羊21頭、それにボーダー・コリー犬が2匹だった。アイヌ青年はすぐに有能な羊飼いとなり、羊と犬は毎年増えつづけた。
日露戦争が始まると、村からは五人の青年が徴兵され、中国大陸の前線に送られた。
彼らは五人とも同じ部隊に入れられたが、小さな丘の争奪戦の際に敵の榴弾が部隊の右側面で破裂し、二人が死に、一人が左腕を失った。
戦闘は三日後に終り、残りの二人がばらばらになった同郷の戦死者の骨を拾い集めた。彼らはみな第一期と第二期の入殖者たちの息子だった。
戦死者の一人は羊飼いとなったアイヌ青年の長男だった。
彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。
「どうして外国まででかけていって戦争なんかするんですか?」とアイヌ人の羊飼いは人々に訊ねてまわった。その時彼は既に45になっていた。
誰も彼の問いには答えてはくれなかった。アイヌ人の羊飼いは村を離れ、牧場にこもって羊と寝起きを共にするようになった。
妻は五年前に肺炎をこじらせて死んでいたし、残された二人の娘も既に嫁いでいたのだ。
彼は息子を失くしてからはすっかり気むずかしい老人となり、62で死んだ。
羊の世話を手伝っていた少年がある冬の朝、牧舎の床の上に横たわった彼の死体を発見した。凍死だった。
初代のボーダー・コリーの孫にあたる犬が二匹彼の死体の両わきで絶望的な目をしてくんくんと鼻を鳴らしていた。
羊たちは何も知らずに棚の中に敷きつめられた草を食べていた。羊たちが歯をかみあわすかたかたという音が静かな牧舎の中にカスタネットの合奏のように響きわたっていた。
僕は便所に立ってビール二缶ぶんの小便をした。席に帰ってみると、彼女は目覚めていて、窓の外の風景をぼんやりと眺めていた。
窓の外には水田が広がっていた。時折サイロの姿も見えた。川が近づき、そして去っていった。僕は煙草を吸いながら風景と、その風景を眺めている彼女の横顔をしぱらく眺めていた。
彼女はひとこともしゃべらなかった。僕はタバコを吸い終わるとまた本に戻った。鉄橋の影が本の上でちらちらと揺れた。
羊飼いの老人となって死んだ薄幸のアイヌ青年の物語が終わってしまうと、あとの歴史はかなり退屈なものだった。
ぼくは本を閉じてからあくびをし、そして眠った。
我々は旭川で列車を乗り継ぎ、北に向って塩狩峠を越えた。98年前にアイヌの青年と貧しい農民たちが辿ったのとほぼ同じ道のりである。
秋の日差しが原生林の名残りや燃えるように赤く紅葉したななかまどをくっきりと照らしていた。空気はりんと澄みきっていた。じっと眺めていると目が痛くなってくるほどだ。
列車は始めのうちは空いていたが、途中から通学する高校生の男女でぎっしりと満員になり、彼らのざわめきや歓声やふけの匂いやわけのわからない話ややりどころのない性的欲望で溢れた。そ
んな状況が三十分ばかり続いてから、彼らはどこかの駅で一瞬にして消滅した。車内は再びからんとして、話し声ひとつ聞こえなくなった。
列車を下りたのは12時過ぎだった。プラットフォームに下り立つと、僕は思い切り体を伸ばして深呼吸をした。肺が縮み上がりそうなほど空気は澄んでいた。太陽の光は暖かく肌に心地良かったが、気温は札幌より確実に二度は低かった。
線路沿いに煉瓦造りの古い倉庫が幾つも並び、そのわきには直径三メートルはある丸太がピラミッド型に積み上げられ、昨夜の雨を吸い込んで黒く染まっていた。
我々を乗せてきた列車が出発してしまうともうあとには人影もなく、花壇のマリゴールドだけが冷ややかな風に揺れていた。
プラットフォームから見える街は典型的な小規模の地方都市だった。小さなデパートがああり、ごたごたとしたメイン・ストリートがあり、10系統ばかりのバス・ターミナルがあり、観光案内所があった。見るからに面白味のなさそうな街だった。
「ここが目的地なの?」と彼女が訊ねた。
「いや、違うよ。ここでもうひとつ列車を乗り換えるんだ。我々の目的地はこれよりずっとずっと小さな街さ」
乗り換えの列車が発車する十分前に、彼女がりんごを一袋買って帰ってきた。我々はそれを昼食代りに食べてから列車に乗り込んだ。
列車はまさに廃車寸前というところだった。床板はやわらかい部分から波形に擦り減っていて、通路を歩くと体が左右に揺れた。
シートのけばは殆んど消え失せ、クッションは一ヵ月前のパンみたいだった。
便所と油の匂いがいりまじった宿命的な空気が車内を支配していた。
僕は十分かけて窓を押し上げ、しばらく外の空気を入れたが、列車が走り出すと細かい砂がとび込んできたので開ける時と同じくらいの時間をかけてまた窓をしめた。
列車は二両編成で、全部で15人ばかりの乗客が乗っていた。そしてその全員が無関心と倦怠という太い絆でしっかりと結びつけられていた。
らくだ色のセーターの老人が雑誌を読みつづけていた。彼の読書スピードからすれば三ヵ月前の号だとしても不思議はない。
太った中年の女はスクリアピンのピアノ・ソナタに聴き入っている音楽評論家のような顔つきでじっと空間の一点を睨んでいた。
僕はそっと彼女の視線を追ってみたが空間には何もなかった。
子供たちもみんな静かだった。誰も騒がず誰も走りまわらず、外の風景を見ようとさえしなかった。
誰かが時折ミイラの頭を火箸で叩いているような乾いた音をたてて咳をした。
列車が駅に停まるごとに誰かが降りた。
誰かが降りると車掌も一緒に下りて切符を受け取り、車掌が乗ると列車は発車した。
覆面をかぶらなくても十分銀行強盗ができそうなくらい無表情な車掌だった。
新しい乗客は誰も乗らなかった。
窓の外には川が続いていた。川は雨を集めて茶色く濁っていた。秋の太陽の下でそれはキラキラと光るカフェ・オ・レの放水路のように見えた。
川に沿って舗装道路が見えかくれしていた。
時折木材を積んだ巨大なトラックが西に向けて走っていくのが見えたが、全体とすれば交通量はごくひっそりとしたものだった。
道路に沿って並んだ広告板はがらんとした空白に向けてあてのないメッセージを送りつづけていた。
僕は退屈しのぎに次から次へと表われるスマートで都会的な匂いのする広告板を眺めていた。
そこでは日焼けしたビキニの女の子がコカ・コーラを飲んでいたり、中年の性格俳優が額にしわをよせてスコッチのグラスを傾けていたり、ダイバーズ・ウォッチが派手に水をかぶっていたり、おそろしいほど金をかけたスマートな部屋の中でモデルが爪にマニキュアを塗っていたりしていた。
広告産業という名の新しい開拓者たちは実に手際良くその大地を切り開いているようだった。
列車が終点である十二滝町の駅に着いたのは2時40分だった。
皮膚がひりひりと痛みそうな沈黙が僕の目を覚ました。気がつくと車内には我々の他に乗客の姿はなかった。
我々は二人ともいつのまにかぐっすり寝込んでいて、駅名のアナウンスを聞きのがしてしまったようだった。
僕はあわてて網棚から二人ぶんの荷物を下ろすと彼女の肩を何度か叩いて起こし、列車を降りた。
ディーゼル・エンジンが最後の一息をしぼり出すように排出してしまうと、そのあとには完全な沈黙がやってきた。
プラットフォームを吹く風には既に秋の終りを思わせる冷ややかさがあった。
太陽は早くも中空を滑り下りて、黒々とした山の影を宿命的なしみのように地面に這わせていた。
方向を異にするふたつの山なみが町の眼前で合流し、マッチの炎を風からまもるためにあわせられた手のひらのように町をすっぽりと包んでいた。
細長いプラットフォームはそびえ立つ巨大な波にまさにつっこんでいこうとする貧弱なボートだった。
我々はあっけにとられて、しばらくそんな風景を眺めていた。
「羊博士の昔の牧場はどこにあるの?」と彼女が訊ねた。
「山の上だよ。車で三時間かかる」