十日めの朝、二度めの雪が降りはじめた。べっとりと湿ったみぞれが確かな氷片に変り、そして不透明な雪になった。
雪はそのまま夕方まで降りつづき、草原は一面の白に覆われた。
夜の闇があたりを包むころに雪はやみ、再び深い沈黙が霧のようにやってきた。僕には防ぎようのない沈黙だった。
もちろん積雪は恒久的なものではなかった。大地が凍りつくまでにはまだ少し間がある。
翌日はからりと晴れわたり、久々の太陽の光がゆっくりと時間をかけて雪を溶かしていった。草原の雪はまばらになり、残った雪が陽光を眩しく反射していた。
駒形屋根に積った雪が大きな塊りとなって斜面を滑り、音を立てて地面に落ちて砕けた。雪溶け水がしずくとなって窓の外を落ちていた。何もかもがくっきりと輝いていた。
かしの木の葉の一枚一枚の先端には小さな水滴がしがみつくように光っていた。
僕はポケットに両手をつっこみ、居間の窓際に立ったままじっとそんな風景を眺めていた。全てが僕とは無関係に繰り広げられている。
僕の存在とは無関係に、誰の存在とも無関係に全ては流れていくのだ。雪は降り、雪は溶ける。
夕方になって鼠の部屋に新しい本を取りに行こうとして、階段の上りぐちにある大きな姿見がひどく汚れていることに気づき、雑巾とガラス磨きスプレイで磨いた。
どうして鼠がこの鏡だけを汚れるままに放っておいたのか、僕にはわからなかった。
僕はバケツにぬるま湯を汲んで、ナイロンたわしで鏡を拭き、こびりついた脂をこすりとってから、空雑巾で磨いた。バケツがまっ黒になるくらい鏡は汚れていた。
凝った木枠のついた見るからに時代ものの鏡だったが高価なものらしく、磨き終えたあとには、くもりひとつ残らなかった。
僕は鏡の前に立ってしばらく自分の全身を眺めてみた。
僕は僕で、僕がいつも浮かべるようなあまりぱっとしない表情を浮かべていた。ただ鏡の中の像は必要以上にくっきりとしていた。そこには鏡に映った像特有の平板さが欠けていた。
それは僕が鏡に映った僕を眺めているというよりは、まるで僕が鏡に映った像で、像としての平板な僕が本当の僕を眺めているように見えた。
僕は右手を顔の前にあげて口もとを手の甲で拭ってみた。鏡向うの僕もまったく同じ動作をした。しかしそれは鏡の向うの僕がやったことを僕が繰り返したのかもしれなかった。
今となっては僕が本当に自由意志で手の甲で口もとを拭いたのかどうか確信が持てなかった。
僕はあきらめて鏡の前を離れた。彼もやはり鏡の前を離れた。
12日めに三度めの雪が降った。僕が目覚めた時、既に雪は降っていた。おそろしく静かな雪だった。固くもなく、べっとりとした湿り気もない。それはゆっくりと空から舞い下り、積る前に溶けた。
そっと目を閉じるようなひそやかな雪だった。
僕は納戸から古いギターをひっぱりだして苦労して調弦し、古い曲を弾いてみた。ベニー・グッドマンの「エアメイル・スペシャル」を聴きながら練習しているうちに昼になったので、もう固くなってしまった自家製パンに厚く切ったハムをはさみ、缶ビールを飲んだ。
30分ばかりギターの練習をしていると羊男がやってきた。雪はまだ静かに降りつづいていた。
「邪魔なら出直してくるよ」と玄関のドアを開けたまま羊男は言った。
「いや、いいよ。退屈していたんだ」僕はギターを床に置いてそう言った。
「ギターを弾いてたんだね」と羊男は感心したように言った。「音楽はおいらも好きだよ。楽器は何もできないけどさ」
「僕もできないよ。もう十年近く弾いてなかったんだ」
「でもいいから少し弾いてみてくれないかな」
僕は羊男の気を悪くしないために「エアメイル・スペシャル」のメロディーをひととおり弾き、あとワン・コーラス、アドリブのようなものをやりかけてから小節の数がわからなくなってやめた。
「うまいよ」と羊男は真剣に賞めてくれた。「楽器が弾けるというのは楽しいんだろうね?」
「うまく弾ければね。でもうまくなるためには耳がよくなくちゃだめだし、耳がいいと自分の弾いてる音にうんざりしちゃうんだ」
「そういうものかな」と羊男は言った。
僕は羊男とふたりで、しばらく雪を眺めていた。まるでちぎれた雲が空から落ちているような柔らかい雪だった。
「ビールでも飲む?」と僕が訊いた。
「ありがとう。でもできればブランデーの方がいいな」
僕は台所に向かった。階段の前を通る時に鏡が見えた。
鏡の中のもう一人の僕も、やはりブランデーとビールを取りに行くところだった。我々は顔を見合わせてため息をついた。
我々は違う世界に住んで、同じようなことを考えている。まるで「ダック・スープ」のグルーチョ・マルクスとハーポ・マルクスみたいに。
僕の後ろには居間が映っていた。あるいは彼の向うには居間があった。
僕の後ろの居間と彼の向うの居間は同じ居間だった。ソファーもカーペットも時計も絵も本棚も、何もかも同じだった。
それほど趣味はよくないにしても居心地の悪くない居間だ。しかし何かが違っていた。
あるいは何かが違っているような気がした。
僕は台所でブランデーとビール、それにチーズ・サンドウィッチを用意し、盆にのせて帰りにもう一度鏡の中の居間を眺め、それから本物の居間を眺めた。
羊男はソファーに座ってあいかわらずぼんやりと雪を眺めていた。
僕は鏡の中の羊男の姿を確かめてみた。
しかし羊男の姿は鏡の中にはなかった。
誰もいないがらんとした居間に、ソファー・セットが並んでいるだけだった。鏡の中の世界では僕は一人ぼっちだった。
背筋がきしんだ音を立てた。