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ユニークな残暑見舞いが呼び起こす、遠い記憶「ミッドナイトクロス」

キッチンカーの営業を終えて家に帰ると、郵便受けに薄い茶封筒が1通。

差出人の名前には心当たりがありますが、郵便物を頂く所以は思い浮かびません。

「そういえば三ヶ月ほど前、差出人の彼を交えた三人で鹿肉料理を食べに行ったことがあったが、さてはその時、彼が食べようとしていた肉を、私が平らげてしまったか。
彼はそのことをずっと根に持っていて、ついに爆発した怒りにまかせ、恨みつらみを書き綴ってきたのかもしれない」

カミソリが仕込まれていないことを確認しながら封を開くと、中から映画評のコピーが出てきました。

思い出しました。

4月中旬、「長野ロキシー」がコロナ禍により明日から休館というタイミングで、ブライアン・デ・パルマ監督の「ドミノ」という映画を観たのですが、館内で偶然会ったのが彼だったのです。

「デ・パルマ監督作品では、『ミッドナイトクロス 』(1981年) が一番好き」と言った私の話を覚えていて、わざわざ昔の映画評をコピーしてくれたのでした。

「ミッドナイトクロスは、映画を観て育ち、映画にがんじがらめにされてしまったデ・パルマだけが撮りえた傑作」との映画評。

同感です。

この映画は興行的には惨敗だったそうですが、後に「アンタッチャブル (1987)」「ミッション・インポッシブル (1996)」を手掛けることになる同監督が、上り調子にあった頃の野心作です。

物語は、ジョン・トラボルタ演じる録音技師の主人公が、効果音の収録中に偶然、自動車事故を目撃したことから展開します。

彼は事故現場から、ナンシー・アレン演じる女主人公を救出するのですが、事故には政治的陰謀が絡んでおり、二人は命を狙われることになります。

物語の圧巻はクライマックス。

フィラデルフィアの華やかな、独立記念パレードのさなか、ナンシー・アレンに忍び寄る暗殺者の影。

パレードの賑わいにかき消される彼女の悲鳴が、ワイヤレスマイクを装着したトラボルタだけには届きます。

彼女の声を追って、人垣をなぎ倒しながら疾走するトラボルタ。このシーンを意識して作られた、公開当時のキャッチコピーは「間に合うのか? トラボルタ」。

彼の視線で捉えた長回しのカメラが、スリリングなシーンを展開します。広場の階段で展開される、騎馬と車とのカーチェイスも迫力ありました。

そしてラスト、二人の頭上に咲く花火を、ローアングルのカメラを360度回転させて撮ったシーンの美しさには、思わずため息を漏らしたものです。

「映像の魔術師」との異名をとる、デ・パルマ監督の面目躍如といったところです。

本作のベースになったのが、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」(1966)です。原題は「Blow Up」

デヴィッド・ヘミングス演じるカメラマンの主人公が、たまたま公園で撮影した男女の逢引き写真をBlow Up…つまり大きく引き伸ばしたところ、殺人の瞬間が映り込んでいることを発見するという設定。

一方、ミッドナイトクロスの原題は「Blow Out」

主人公が、たまたま録音したタイヤのパンク(Blow Out)音を分析したところ、銃声音に気付くという設定。

デ・パルマ監督が「欲望」のコンセプトを応用したことは、ほぼ間違いないでしょう。

「アンタッチャブル」のシカゴ・ユニオンステーションでの銃撃戦が、「リオ・ブラボー」「戦艦ポチョムキン」を下敷きにしていたり、「殺しのドレス」がヒッチコックの「サイコ」を彷彿させたりと、デ・パルマ監督の作品には、過去の映画の断片が散りばめられています。

「デ・パルマの映画とは、映画館の中で虚構を生きてきた男が、その記憶から作った作品なのだ。彼には映画の体験しかない。

そんな虚構の世界に閉じ込められてしまった悲しみが、彼の作品には常に流れている」との映画評は、的を得ています。

デ・パルマ監督だけでなく、映画ファンもまた、現実より虚構の世界にリアリティを求める、疑似体験中毒者なのでしょう。

私もまた、その一人であるのでしょう。だって、40年近く前の「ラジオ英会話」に掲載された、ミッドナイトクロスのスクラップを今だに保管しているのですから。

↑差出人がこのブログをご覧になったようで、返信を頂きました。

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