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コーヒー豆の出荷港サントスに、ブラジル移民の夢をたどる

本日は、菅谷さんの友人が運転する車に同乗して、サンパウロから南へ75kmの「サントス」へ日帰り旅行。

バスでサントスに行く場合は、サンパウロに三ヶ所ある長距離バスターミナルの一つ、市内南部に位置する「ジャバクアラ」ターミナルから乗車する。

峠のトンネルを抜けると、陽光きらめくサントスは近い

サンパウロ州南東部に位置するサントス (Santos) は、ポルトガル植民地時代である1543年の開港以来、港湾都市として栄えてきた。

世界のコーヒー豆生産量の1/3をブラジルが占めているが、サントス港から輸出されるコーヒーは「サントス・コーヒー」と称され、最高級品としての呼び声が高い。

ブラジルコーヒーの歴史は1727年、フランス領ギアナとの領土紛争のおり、ブラジル政府から派遣された軍人がコーヒーの種を密輸したことが始まりと言われる。

ブラジル北部のパラ州で始まったコーヒー栽培は、19世紀前半にはサンパウロ州など南東部に広がり、その栽培を担ったのは約150万人の奴隷たち。

1888年にブラジルでの奴隷制度が廃止されるとコーヒー農園主たちは、イタリアなどヨーロッパからの移民を雇用し労働力を充足するようになったが、待遇の悪さから反乱が起きる状況だった。

一方、日本では1904年に日露戦争が起き、ロシアに対して勝利をおさめたものの、賠償金を得られなかったこともあり経済は混乱し、農村の貧しさが深刻になっていた。さらにアメリカ政府が日本人移民の受け入れ数の制限を強化したことや、アメリカに代わる移民受け入れ先として有望視されていたオーストラリアやカナダ政府も日本人移民の受け入れを制限したことから、日本政府は新たな移民の受け入れ先を模索することとなった。

こうした時代を背景に1908年4月28日、ブラジルを目指した第一号の移民船「笠戸丸」に、781人の移民が乗り込み神戸港を出港、6月18日にサントス港に到着した。新天地に降り立った移民たちは、ここで歓喜に沸き立ったことだろう。

エミサリオ・スブマリーノ公園に建つ「日系移民ブラジル上陸記念碑」

しかし、数年間コーヒー園などで働き、金を貯めて故郷に錦を飾るつもりだった移民たちの思いとは裏腹に、住環境は悪く労働は過酷で低賃金、貯金どころではなく借金が増える一方で、自らを「棄民」(日本国に棄てられた民)と揶揄したという。

荒涼たる未開の地に追われ、ついに帰国の夢叶わなかった人々は、太陽輝き、空はどこまでも青いサントスを、どのような思いで回想したのだろうか。

今では高級マンションが立ち並ぶリゾート地としても人気が高いサントス

しかし、過酷なコーヒー農園から逃亡した日本人移民は、移民同士で資金を出し合い共同で農地を取得し、集団入植地や農業組合を形成して、綿や胡椒、茶やジャガイモなどの栽培を進め、ブラジル農業の振興に大きな役割を果たすこととなる。
彼らの不屈の精神に思いを巡らすとき、コーヒー豆やジャガイモの一粒一粒が、情念の化身のように思えてくる。

「モンチ・セハーの丘」に佇むカフェからは、サントス湾を一望できる
ビーチエリアのレストランで、シーフードのランチ
リベルダージに帰り、東洋人街で韓国料理の夕食
夕食のお供は、ブラジルの代表的なカクテル「カイピリーニャ」
ロック・グラスにぶつ切りにしたライム1/4個を入れ、砂糖1~2tspを加えてつぶす。
クラッシュド・アイスを加え、「カシャーサ51」45mlを注ぎ軽く混ぜる。
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