爽やかだけど重厚、クロアチアのオレンジワイン

爽やかだけど重厚、クロアチアのオレンジワイン

月例のワイン会、今回はクロアチア特集です。
クロアチアの英語表記は Croatia。クロエーシャ krəʊéɪʃə と発音します。「クロアチア人」はCroatian

珍しい品種のブドウから作られたワインは、どれも独特の風味を備えており、西ヨーロッパのワインとはまた一味違った楽しみがありました。

特に私は、爽やかなのに重厚な味わいを持つ「オレンジワイン」のヴェラルンダアンプラに心惹かれました。

 

オレンジワインは赤・白・ロゼに続く第4のカテゴリーとして、注目されています。

赤ワインは、黒ブドウを皮ごと醸造します。

白ワインは、白ブドウの皮や種を取り除いて醸造します。

ロゼワインは、黒ブドウの皮や種を取り除いて醸造します。

 

白ブドウを皮ごと醸造したものが、オレンジワインです。

アントシアニンが含まれない白ブドウの果皮を使うため、赤色にはなりませんが、黄色系色素が溶出することで、オレンジに近い色調になります。

同時に、皮や種も一緒に仕込むことで、白ワインにはない渋味と苦味を併せ持った、複雑な味わいのワインになります。

 

通常、白ワインは自然の酸化防止剤であるタンニンを持たないため、赤ワインに比べると亜硫酸(酸化防止剤)が多めに必要となります。
しかし、オレンジワインは赤ワインと同じようにタンニンがあるため、亜硫酸の添加を控えたワイン造りが可能。
ここに目を付けたのが、世界的なブームとなっている「ナチュラルワイン」の生産者。

彼らは、白ワインをオレンジワインとして造ることで添加物を少なくし、ナチュラルワインのブームに乗って世間の認知を得ました。

この「オレンジワイン」という呼び名はイギリスのワイン商が2000年代に作った造語で、オレンジワインの伝統的な産地であるジョージア(グルジア)では、「アンバーワイン」と呼んでいます。

 


本日の会場は、恒例のイタリアン料理店「BOSCO」さん。

それぞれ異なった味わいに仕上げた6品を、仕切りプレートに盛り付けた前菜でスタート。

その後にサラダを持ってきて、ピッツァ ⇒ 豚肉ロースのステーキ ⇒ パスタ ⇒ チョコレートケーキ+コーヒー という見事な流れで、味のコントラストも楽しめました。

さすが老舗の貫禄です。

豚肉の筋切りがもう少し丁寧で、マリネのタコが生であったなら、文句なしです。

 

椿さん出題のクイズでクロアチアに関する理解も深め、参加者の方からは、松代町で就農された方の情報なども頂き、いつもながらお腹も頭も心も満足の3時間でした。

 

クロアチアの面積は5万6,594平方キロメートル(九州の約1.5倍)、2018年人口409.6万人、首都はザグレブ、公用語はクロアチア語。

10世紀前半、トミスラブ公がクロアチア王国を建国。15世紀にオスマン帝国に征服されますが、18世紀末までにオーストリア・ハンガリーによって回復されます。

以降クロアチアは、ハプスブルク体制寄りの姿勢をとりますが、第一次世界大戦の敗北で1918年にオーストリア・ハンガリーが崩壊。

クロアチアはスロベニアとともに、南スラブ民族による連邦国家の設立というセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国を成立。

1929年には国名をユーゴスラビア王国に改名しました。

 

その後ユーゴはナチス・ドイツの侵攻を受け、これに対してユーゴ共産党率いるパルチザンが抵抗運動を繰り広げていましたが、そのリーダーが、後にユーゴの終身大統領になるチトーです。

彼は、多くの民族が入り乱れて住む地域で、民族自決と小作農からの解放を掲げて、多様な人々の力を結集することに成功、ナチス・ドイツから自力で解放を果たし、国制も「王国」から「社会主義連邦共和国」へと変えました。

解放と同時にソ連が「指導者」としてユーゴに入ってきて、中央集権型の政治経済運営を進めようとします。これに農民が抵抗、ソ連との溝が深まり、1948年には共産党の国際組織であるコミンフォルムからユーゴは追放されてしまいます。

 

東側ブロックから離脱を余儀なくされたユーゴは、非同盟運動を始めるなど、東西対立の狭間にあって絶妙なパワーバランスをとるようになります。

東ブロックとの緩衝地帯であるユーゴに対して西側諸国は、経済的・政治的支援を注ぎ込みました。

 

1980年にチトーが死去すると、大統領は共和国と自治州(セルビア共和国のヴァイヴォディナとコソヴォ)の代表による、1年交替の輪番制になります。

当時のユーゴスラビアの多様性は、「1つの国、2つの文字(ラテン文字とキリル文字)、3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)、4つの言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)、5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人)、6つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)、そして7つの国(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア)と国境を接する」と表現されました。

 

中央集権化を進めていくべきと主張するセルビアとモンテネグロに対して、スロベニアとクロアチアは、共和国の独立性をより高めて、緩やかな国家連合としてユーゴスラビアを運営していくべきと対抗していました。

 

セルビアでは憲法を改正してヴォイヴォディナとコソヴォの自治権を大幅に制限するなど、ユーゴ内部での亀裂は深まるばかりでした。
そして迎えたユーゴ共産党臨時大会において、スロベニア共産党とクロアチア共産党の代表団が席を立って会議場から姿を消すという事態に至り、共和国間の対立は決定的になりました。

ベルリンの壁崩壊から2カ月後、1990年1月のことです。

同年5月、クロアチアで大戦後初の自由選挙が実施され、クロアチア人の国を作ることを掲げて民族主義を前面に押し出した「クロアチア民主同盟」が勝利、党を率いるフラーニョ・トゥージュマンが、初代クロアチア大統領に選出されます。

クロアチアはユーゴ憲法の規定に則って連邦からの独立手続に入りますが、クロアチア領内に住むセルビア人は独立に反対しており、ユーゴ連邦軍はセルビア人保護を目的に、クロアチアに介入します。

 

1991年10月5日、トゥージュマン大統領がクロアチア国民に対して、軍の支援を受けたセルビア人勢力の動きに徹底抗戦を呼びかける演説を行います。

その2日後、軍の戦闘機が大統領府をミサイル攻撃するという事件が発生、クロアチア政府の要人は難を逃れますが、この事件が決定的となり、クロアチアはユーゴスラビアからの完全独立を宣言するに至ります。クロアチアの独立記念日は10月8日に設定されています。

 

歴史に「もしも」はありませんが、もしトゥージュマン大統領とミロシェビッチ・セルビア共和国大統領が、話し合いによる解決策を模索していたら、その後の悲劇は起きなかったかもしれません。

国が大きな転換期を迎えたとき、賢明な指導者に恵まれるか否かがいかに重要であるか、考えさせられます。

クロアチア政府とセルビア人勢力との武力衝突は1995年まで続き、このクロアチア紛争  (クロアチア人は「独立戦争」と呼びますが)  で,二万人以上の死者・行方不明者と数十万人の難民が発生しました。

 

1992年1月、ヨーロッパ共同体 (EC) はクロアチアの独立を承認しました。

日本がクロアチアを承認したのはそれよりも後ですが、アメリカ合衆国よりは早く、この点をクロアチアの人たちは、とても恩義に感じているそうです。

アメリカ追従と揶揄されることが多い日本の外交ですが、クロアチアの独立承認については独自の判断をしたようです。

 

クロアチアには7つの世界遺産がありますが、中でも有名な二つが、中世の城壁都市ドゥブロブニク(文化遺産)と16の湖が連なるプリトヴィッツェ(自然遺産)です。

 

2007年11月に私が訪れたドゥブロブニクは、アドリア海の青い海に浮かぶ幻想の都市のようでしたが、ユネスコの支援による修復が終わっていたからであって、戦時中は海への出口を求めていたセルビアの格好の標的となり、街は壊滅的な打撃を受けたようです。

 

こうした時代を背景に、クロアチア人男性とセルビア人女性の恋愛をドラマにしたのが、クロアチア・スロベニア・セルビア合作による2015年製作の映画「灼熱」です。

 

クロアチアと同じく、ユーゴから独立(1991年6月)したスロベニア。

ここを旅行した友人に頂いたお土産 (画像左)

塩味がスパイスとなっているチョコレート。ルーツはメキシコのようです。


画像右は、同時に頂いたウエハース。ロックフォールのチーズフレーバーがかなり効いていて、ワインによく合いそうです。ドイツ原産。

 

 

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