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退院の日に想うこと「いま、ここに、意識をとどめる」

退院の日に想うこと「いま、ここに、意識をとどめる」

お世話になった看護師のみなさんに見送られ、3週間の入院生活を終えました。

楽観主義と、希望を持ち続ける素晴らしさを (ちょっと大げさかな)、私にプレゼントしてくれた関先生には、静かに感謝しています。

 

退院を迎えた今日も、関先生の回診で、一日が始まりました。

先生は朝6時、入院患者全員の様子を診て回ります。日曜日を除く、毎日ですよ。

 

回診を終えてから外来診療、昼食をとらずに手術、それから午後の外来診療と続きます。

まだ漆黒の闇に包まれた降雪の早朝、外来患者駐車場の雪かきをしている人の姿が病室から見えて、大変だなあ、と思ってよく見ると、それは関先生でした。

「診療報酬の加算を得るため?」と、勘繰りたくなるくらいの働きぶり。

 

しかし退院後、お世話になっている整体院を訪ねたとき、そんなイヤらしい考えを持ったことを、私は恥じることになります。

 

訪ねた整体院の整体師は、かつて日赤で理学療法士として勤務しており、偶然にも当時、整形外科で診療していた関先生と同僚だったそうです。

「関先生は日赤にいたときも、毎朝、回診していたなあ」

整体師は、しみじみ語っていました。

 

「関先生の情熱に応えるためにも」と、私はリハビリに励みました。その甲斐あって股関節の動きも滑らかになり、何とか正座の姿勢で、先生にお礼を述べることができました。

 

そして僕は、バスに乗って家路についた

入院するにあたり僕は、必要最小限の物をリュックに詰め、路線バスに乗って病院に到着した。

入院生活を、「ちょっとそこまで買い物に」という感覚で、日常の延長として捉えたかったから。

 

そんな考えを抱いたのは、10年以上前の、ある一日の体験に由来する。

僕が「神様からもらった日」と、勝手に名付けた、ある初秋の日。

 

当時、無職だった僕は、わずかな小遣い稼ぎも兼ねて、知人宅の簡単な修繕工事を請け負っていた。

といっても、実際に施工するのは、大工だった父なのだが。

 

新たに請け負った修繕は、空室のワンルームマンションの、壁の下地張り替えだった。

ところが工事を前にして、父の体調があまりよくなく、病院でPSA検査を受けることになった。

PSAは「前立腺特異抗原、prostate-specific antigen」の略、前立腺の上皮細胞から分泌されるタンパクのこと。

腫瘍マーカーのひとつで、この値が高いと前立腺がんが疑われる。

基準値が0~4ng/mLといわれる値の、父のそれは 100 を超えていた。

 

「家族と一緒に来院してください」と言って、医師が指定した日は、工事予定日の翌日だった。

 

工事は中止しようという僕の言葉を、父は受け入れなかった。

僕たちは予定通り、工事現場に向かった。

穏やかな、秋晴れの日だった。

 

工事の合間の休憩時、僕たちは、スーパーで買ったアンコロ餅を、一緒に食べた。

「俺は半分でいいや」

父はそう言い、爪楊枝で餅を器用に切り分けると、皿を僕のほうに押してよこした。

 

初秋の気持ちのいい風が、窓から流れ込んできた。

 

明日はガン告知されるかもしれないという父の、内心は穏やかではなかったはずだ。

それでも淡々と仕事をこなす父を見ながら、あの日、僕は、生きていくうえで大切な何かを、おぼろげに理解した気がする。

 

人の意識や思考はよくできたもので、過去にも未来にも瞬時に飛ぶことができるのだけど、それが後悔や不安など、苦悩の源泉ともなる。

僕自身、股関節手術の日程を決めてからも、「30年前の交通事故がなかったら、股関節は調子よかったはずなのに…」「手術ではなく、温存療法という手段もあったのでは…」などと、あれこれ思い悩んだりもした。

 

そんな、過去や未来へと飛躍する意識の呪縛から逃れるためには、つまり、意識を「今、ここに」とどめることが肝心なのだと思う。

目の前にある日常の、今できることに取り組むことが、心の平穏を保つ最良の方法であることを、父は経験から知っていたのだろう。

 

 

「凡の非凡を経験せよ」という教えが、禅にある。

「ただ座って、たとえば息の出入りのような、存在のもっとも日常的な側面に、注意を向け続けよ」と、禅師は修行者に説くという。

からだの感覚に意識を集中させることによって、思考から注意をそらすことができる。究極的には思考を滅止できる、ということらしい。

 

 

そんなことを、ぼんやり思い出しながら、病院の玄関を出て、どんより曇った冬空の下、バス停に向かって歩く僕は、はっと気づいた。

 

僕は、自分の足で歩いているじゃないか。

 

それは、日常の地道なリハビリに集中した結果なんだ。

意識を、日々の課題にフォーカスしたことで、「杖なしで、歩いて退院する」という、僕の目標は達成されていた。

 

 

バス停では、年配の女性が一人、バスを待っていた。

ほどなく、くすんだ灰色の道路の彼方に、白い点となって現れたバスが、ぐんぐん大きさを増し、やがてゆっくりと、僕らの前で停まった。

扉が開く。

油圧の音。

足裏に触れるステップの感触。

 

僕はすでに、平凡な日常生活の中へと、あっさり放り込まれていた。

だけど、入院前との日常とは、確実に何かが変わっている。

 

僕は手にしていた。

人生の物語を、ちょっと書き直すことが出来そうな、チャンスを。

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