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「ライ麦畑でつかまえて」 サリンジャーと彼女と週末に

「ライ麦畑でつかまえて」 サリンジャーと彼女と週末に

「人工股関節置換術」の手術を受けて2日目。

朝、尿管カテーテルも抜かれ、ベッド上での動きもかなり楽になりました。

 

手術翌日からリハビリが開始されたのには度肝を抜かれたのですが、今日は週末の日曜日とあって、理学療法士によるリハビリはお休み。

なので、読みたかった本を読破することにしました。

 

3週間の入院生活にあたり、何冊かの本を本棚からピックアップしてきたのですが、その1冊が「ライ麦畑でつかまえて」という、アメリカ人作家 J.D.サリンジャー による長編小説。

 

この小説が、僕の本棚に納まることになった、いきさつというのは、30年以上前にさかのぼります。

 

当時29歳の僕は、12月という中途半端な時期に、慣れない職場へ転勤になったことと、好きな女の子にフラれた痛手から、荒んだ生活を送っていた。

職場は残業が多く、毎晩12時過ぎまで勤務。

帰宅してから深夜まで、ビール片手に僕は、独りぼっちの残念会を開きながら、起こるはずのない奇跡を待つような毎日だった。

 

傍目で見ていても分かったのだろう。見かねた友人が、男女の友人を誘って、スキーなどに連れ出してくれた。

そのうちに僕は、女の子の一人と、ドライブや食事へ出かけるようになった。

 

ただ、寂しさを紛らわせたかっただけだったんだろう。

満たされたい、と思う僕の勝手な思いは間違った方向に向かい、根本的な何かを解決してくれることはなかった。

 

彼女に対して、曖昧な態度を取り続けるわけにはいかなかった。

 

「もう二人で会うのはやめにしようよ」

そう彼女に告げてから、三日後のことだった。

泥酔したまま、コンビニに弁当を買いに自転車で出かけた僕は、無茶な横断をして車にはねられた。

 

救急車で病院に担ぎ込まれ、真っ二つに折れた脛の傷口が塞がるのを待ってから、骨をつなぐ手術を受けることになった。

骨が不正結着しないよう、かかとに開けた穴に重りをぶら下げたまま、手術までの3週間を、ベッド上で過ごさざるをえなくなった。

 

数日後、仰向けのまま、天井ばかり眺めていた僕の視界の片隅に、彼女の姿が映った。

 

遠慮がちに病室に入ってきた彼女に、病院の簡素な丸イスをすすめ、僕たちは他愛のない話に花を咲かせた。

彼女は友人のことなどを話し、僕は、お気に入りの浜田省吾のことを話した。

 

浜田省吾の曲に「僕と彼女と週末に」という、1982年の作品がある。

 

♬ 週末に僕は彼女とドライブに出かけた。

遠く街を逃れて、浜辺に寝転んで

彼女の作ったサンドイッチを食べ、ビールを飲み、

夜空や水平線を眺めて、僕らは色んな話をした。

彼女は、彼女の勤めてる会社の嫌な上役のことや

先週読んだサリンジャーの短編小説のことを僕に話し、

僕は、今度買おうと思ってる新しい車のことや

二人の将来のことを話した。♬

 

そんな内容の歌詞だ。

 

「サリンジャーの小説って、どんな物語なんだろうな」

僕は、ベッドの上で何気なくつぶやいた。

 

数日後、再び彼女は病室にやって来た。

「高校のとき、読書感想文の課題で配られた本が、まだ残っていたわ」

そう言って彼女が差し出したのが、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だった。

 

まっさらの表紙。

彼女が、本屋を捜し歩いて手に入れたことは、明らかだった。

だいたい、ミッション系の私立女子高で、素行不良の少年を主人公にした小説が、課題になるはずがない。

 

彼女が病室から帰ったあと、僕は小説を読み始めたものの、あまり興味をひく内容ではなく、読みかけのまま退院を迎えることになってしまった。

松葉杖をつきながら自宅に帰った僕は、小説を本棚にしまい込み、それきり手にとることはなかった。

 

彼女とも、いつしか疎遠になっていった。

 

数年後、人づてに聞いた。彼女は結婚して、子宝にも恵まれている、と。

 

お互い、完全に別々の道を歩んでいくのだろうな、という感覚とともに、サリンジャーの小説はひっそりと、本棚の奥に残されたままになった。

 

一昨年 (2021年) の夏のこと。見覚えない電話番号から、着信があった。

 

「私よ、わかる ?」

僕が飲食店をオープンしたことを、風のうわさに聞いた彼女からの電話だった。

 

僕たちは、郊外のファミリーレストランで再会した。

 

「私ね、がんになっちゃったの」

彼女は小さく笑いながら、そう言った。

手術を受けたものの、糖尿病を併発するなど、予後は思わしくないようだった。

 

自身の近況や、当時の仲間たちのことを彼女は話し、そして店を出て、駐車場に向かいながら、言った。

 

「また、会ってくれる?」

「そうだね、連絡ちょうだい」

 

30年間というブランクが無いかのような振る舞いの彼女に、僕は少し戸惑いながら、曖昧な答えを返した。

30年前と同じように。

 

しばらくして、1通のLINEが届いた。

 

彼女の息子さんからだった。

 

「母は、病状が急変して亡くなりました。

母のアカウントから、お世話になった皆さまに送信しております。

母と仲良くしていただき、ありがとうございました」

 

6月だというのに、深々と冷え込みが伝わってくる床に座り込んだまま、僕は呆然としていた。

 

 

今回、僕が股関節の手術を決断したのは、痛みをだましながら生活していく曖昧さに、結着をつけたいという思いからだった。

それは、股関節だけでなく、全ての曖昧なことがらに結着をつけるという、自分自身への宣言でもあった。

 

読みかけの本を読破する、ということも、その実現の一つというわけだ。

 

そんなわけで、週末の一日を、僕はサリンジャーとともに過ごすことになった。

 

ところが、なのである。

50ページほど進んだところで、読み始めたことに後悔を感じ始めた。

 

破滅へ向かって、ひたすら螺旋階段を降りるような、そんな主人公の生き方が延々と綴られる展開に、正直うんざりしてきたのだ。

それでも僕は、辛抱強く、ページをめくり続けた。

 

そして、300ページを過ぎたあたりから、物語は予想しなかった方向に展開していく。

最後の20ページを読み進めるうち、ページをめくる手が止まらなくなった。涙が頬を伝って落ちた。

 

「ライ麦畑で遊ぶ子どもたちが、崖から落ちそうになったら、つかまえてあげるキャッチャーに、僕はなりたいんだ」

主人公のこのセリフが、題名の由来となっている。

 

僕自身は、誰かのキャッチャー (守り人) になれるだろうか。

逝ってしまった彼女をはじめ、今まで常に、誰かを傷つけ、誰かの情けにつかまりながら生きてきたようなものだけと、あと残り少ない人生を思うとき、僕の行動が、周囲の誰かに、何らかの希望として伝わっていくような、そんな生き方ができたらいいなと思う。

 

If you fall I will catch you I’ll be wating Time after time.

あなたが倒れそうになったら、私が受け止めてあげる。私は待ってるわ。何度だって。

– Cyndi Lauper 「Time After Time」

 

ライ麦畑でつかまえて The Catcher in the Rye あらすじ >>>

 

 

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